デザイナー、ドリス・ヴァン・ノッテン(Dries Van Noten)の引退によって私たちは何を失うのでしょうか?帰宅中の地下鉄内で「ドリスが退任」の一報を目にして小さく悲鳴を上げてから2週間、今もその事実に小さなため息をついてしまいます。40年近く第一線で活躍してきたドリスにはこの先、別の人生も楽しんで欲しいと心底思う。それでも寂しさが拭いきれないのは、彼がファッション界で最も偉大なショーマンの一人だったからです。
ショーの椅子が表すブランドの価値観
ファッションショーで使用する椅子にはブランドの価値観が反映されます。1人にひとつずつの上質な背もたれ付きの椅子は座る人にリラックス感や優越感を与えるし、ベンチシートは序列がなく平等な印象を与えます。と同時に、大概は人数オーバーで窮屈にもなるのがベンチシートの特徴です(マルジェラ本人時代の「マルタン マルジェラ(MARTIN MARGIELA)」のショーは肩書き問わずの早い者順で実に平和でした)。「ドリス ヴァン ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」の椅子はベンチシートです。来場者を平等に扱おうとする姿勢がそこに表れている。ただし、窮屈にはなりません。
こんな話を聞いたことがあります。ドリスのチームは客席にシートナンバーを置くための長い専用定規を持っていると。そして定規の印通りに極めて正確な等間隔でカードを置いてゆくと。結果、ドリスらしい整然とした美しさを損なうことなく、かつ優越感や不平等感を抱かせることなく来場者を収めることができるそうです。私はこの客席の作り方にドリスの人間力と美的センスが凝縮されていると思います。
卸型ブランドの象徴
パリコレでは1シーズンに約100のブランドがショーを披露します。一口にパリコレブランドと言っても、ショーの役割はビジネス手法の違い、すなわち直営店型か卸型かで大きく異なります。前者にとってショーは広告の一環。ですから話題喚起のセレブリティ起用が活発になるのは当然です。一方、後者の卸型ブランドの訴求相手は基本的に今も変わらずバイヤーや編集者です。
ドリスは卸型の象徴的なブランドであり、しかもコラボなど話題喚起の技に頼らず、文字通り「服だけで」バイヤーや編集者を相手に勝負をする、今では稀有なファッションデザイナーです。何もない空間(構造が剥き出しの解体中の建物を好みました)の照明を落とし、光だけでランウエイを作り、服を着たモデルが歩く。シンプルな演出なだけに服の色や柄が、質感やシルエットが、そしてバランスが美しく際立ち、その場が幸福感に包まれました。
その幸福感を胸に帰国したバイヤーや編集者は、自分の店やメディアのフィルターを通じてそれをお客さんや読者に届けてきました。その退任がこれほど惜しまれる理由の一つのは、ブランドと消費者の間で「ドリス」に関わり、感化され、ビジネスをしてきた人が山ほどいるからだと思います。ビジネスをするとはイコール、その人の生活もかかっているということ。自分ごととして関わった人が多い分、衝撃の波動も大きいわけです。売り上げの拠り所をなくすかもしれない不安感はもちろん、美意識や価値観の基準を見失うような喪失感を覚えている人は多い。これは直営型ブランドのデザイナー交代では見られない現象です。
ああ、ドリス、残念です。ファッション界という迷路で大量の迷子が発生しそうです。彼が託す後進がそのセンスだけではなく、「卸型ブランド」だから生み出せる、多くのプロフェッショナルを巻き込んでの価値観の醸成法を引き継いでくれることを期待します。
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