アシックスは、9月13日に世界陸上2025が開幕するのを前に、報道関係者に向けて神戸の「アシックススポーツ工学研究所(Institute of Sports Science以下、ISS)」の見学ツアーを行った。悲願の売上高1兆円を射程圏内に収め、時価総額は3兆円突破とコロナ禍以降絶好調なアシックス。その成長の源泉こそ、1990年に竣工したISSだ。全天候型の陸上競技用トラック、テニスコート、人工気象室などを備え、トップアスリートに支持される高パフォーマンス製品を生み出している。
25年1月、ISSの所長に竹村周平Cプロジェクト部長が就任した。Cプロジェクトは、24年パリ五輪の男子マラソン銀メダル(バシル・アブディ選手)をはじめ、数多の好成績を叩き出しているシューズ“メタスピード”を生み出したチーム。一般消費者にも売れることを意図して中途半端なシューズを作るのではなく、トップ中のトップアスリートにフォーカスし、彼らの声を徹底的に聞いて迅速に開発に反映することで、成功をつかんだ。アスリートの声はCプロジェクト以前から聞いてきたが、間に人を介することで本音に迫れていない部分もあったという。「Cプロジェクトでは、アスリートから聞き取る声の量と質、その両方を圧倒的に高めた」と竹村氏。
竹村氏がCプロジェクト部長とISS所長を兼務する人事は、Cプロジェクトで培ってきたアスリートとの開発ノウハウや素材情報などを、「マラソン(長距離走)だけでなく、他の競技やシューズ以外のアイテムにも生かしていく」(竹村ISS所長)ことが狙い。ダラダラと研究のための研究を続けるのではなく、「Cプロジェクトのスピード感も他分野に横展開する」。
マラソンでの成功事例を
他競技に横展開
今回の世界陸上でいえば、中短距離走用のスパイクの開発にも、Cプロジェクトのノウハウを生かしている。男子100メートル走に出場する桐生祥秀選手が、7月の日本選手権で5年ぶりの優勝を果たした際に履いていた赤い厚底スパイクがそれだ。マラソンで当たり前になった厚底の潮流は、トラック競技にも広がっている。開発においては、定量的な運動データを反映するのはもちろん、履いた時の感覚など定性的な部分も選手に寄り添うのだという。他にも、強化を掲げるテニスや、バスケットボール用のシューズ、レース用のランニングアパレルなどの開発・改良に、Cプロジェクトのエッセンスを注入している。これら全ての開発の舞台がISSだ。
9月3日に行われたISS見学ツアーでは、運動時の動作分析のために24台のカメラに囲まれた陸上トラックや、11台のカメラに囲まれたトレッドミルの部屋、コンピューター上のシミュレーションで製品の部位ごとに必要な強度などを算出するCAE(コンピューター支援工学)の部屋、シューズのソール材開発のために電子顕微鏡なども置かれているという材料分析の部屋、さまざまなレシピのもとで実際にソール素材のサンプルを作る材料開発の部屋、摂氏マイナス30度〜80度、湿度30%〜90%の空間を作ることができる人工気象室、アパレル開発設計の部屋などを報道関係者に公開した。
報道陣を中まで招き入れてじっくり説明し、質疑応答まで行った部屋もあれば、開け放たれたドア越しに何が行われているかを観察するだけの部屋もあった。そうやってどこまで情報公開するかをコントロールしているわけだが、特にガードが固いと感じたのが、材料分析の部屋だ。われわれに許されたのは、誰もいないガラス張りの部屋を廊下から眺めることのみ。ガラス張りといっても、全てのガラスに目隠しのブラインドがかかっている。
AI活用で
開発スピード急加速
17年のナイキの厚底革命以降、アシックスを含めたスポーツメーカー各社のシューズ開発競争が年々激化しているのは周知の通り。近年のシューズ開発のキモは、まさに目隠しされた部屋で進められているミッドソールの素材研究にあり、シューズ開発競争は素材開発競争と言っていい。「マラソンで勝つにはシューズを軽くしなければいけないが、厚底にしても軽さを保てるソール素材が開発されたことが、17年以降の8年間でこれだけシューズが進化した背景」と竹村ISS所長も説明する。ブラインドで隠された向こうには、特許出願前の素材情報などの企業秘密が詰まっている。
そもそも、素材の研究開発は外部の素材メーカーにお任せというシューズブランドも多い。そうした素材メーカーから中小のブランドにもいい素材が出回るようになったことで、近年のシューズ開発競争は急速に前進した。アシックスは素材メーカー任せにするのでなく、自社内に素材の研究開発部門を抱えていること自体が強みになっている。
ISS見学ツアーが行われた9月3日時点で、世界陸上には113人のアシックス契約アスリートが出場するという発表だった。アシックスは国立競技場にほど近い日本オリンピックミュージアム内に「アシックスハウス」を設け、アスリートや大会関係者、報道関係者らに製品をアピールする。同様の拠点は、パリ五輪などでも設置していた。もちろん、そこでもアスリートから声を集める。「世界陸上を世界のトップアスリートが集まるいい機会として、次の製品開発に生かしていく」と竹村ISS所長は意気込む。
ISSでの開発は、今後AI活用によってさらに加速していくという話も出た。「例えば従来は日に3つしかシミュレーションが叶わなかったものが、AI活用で何十もシミュレーションすることが可能になってきた」と期待する。
研究開発の果実は
一般消費者にも
冒頭でISSが竣工したのは1990年と書いたが、当初は社員の研修・教育施設としても使われていたのだという。研究開発の色合いがより強まったのは、2015年に新館を増設して以降。時をほぼ同じくして、自社で研究開発施設を持つ流れが他のスポーツメーカーにも広がった。例えばゴールドウインは17年、創業地の富山に5億円をかけて「ゴールドウイン テック・ラボ」を開設。デサントは18年、大阪にはアパレルの、韓国・釜山にはシューズの研究開発拠点「DISC」をそれぞれ設けた。近年、スポーツメーカー全般が一般アパレルに比べて業績好調なのは、こうした開発に対する投資が効いている。アスリートのための開発成果は、後年一般消費者向けの製品にも下りてくる。
コロナ禍以降、機能性に対する世の中のニーズがいっそう高まる中で、今後は消費者に対してもより分かりやすく研究開発の果実を届ける仕組みが発展していきそうだ。米ナイキは先日リニューアルオープンした原宿店の店頭に、ランニングの動作分析サービスを導入した。アシックスのISSにもあった、トレッドミルをカメラが囲む部屋の簡易版といった様子で、運動データをもとに消費者に無料で走り方のアドバイスや適したシューズの情報を伝える。また、このほどアシックスは電子部品メーカーTDKと組み、センシングデバイスの共同開発を進めると発表。詳細はまだ未定だが、モックアップ画像ではランナーが足首にデバイスを着けており、フィールドデータの収集に生かすと見られる。まずはトップアスリート向けの開発のみで、デバイスの一般販売予定はなし。ただし、将来的には一般消費者も、このデバイスによる運動動作の改善サポートなどの恩恵にあずかれるかもしれない。