本命だった大学に落ち、結果入学したのは、障がい児教育を専攻する教育学部だった。障がい児教育を専攻したのは、私自身、右耳の聞こえが悪いから。左耳にピアスを複数つけているのは、相手に左側に立って欲しいから。長年の経験で、ファッションはデメリットを克服し得ると結構真剣に思っている。
大学は本命ではなかったせいか、それとも自分自身に障がいがあるせいか、一部の人との違いに違和感を覚えながら障がい児と向き合った4年間だった。特に違和感を覚えたのは、近隣にあった教員養成系の大学で障がい児教育の教諭を目指していた人たちとの、言うなればスタンスの違いだったと思う。(今では、その価値も理解しているつもりだが)「無償の愛」を提供すべきという前提に立ち、時には慈善的に接している姿を見ると不思議に思ったものだ。私は、そこまでにはなれなかった。ボランティア活動は当たり前になっていたし、どちらかと言えば子どもたちには好かれる方だと思っていたが、中には「嫌いな子」だっていた。でも、それで良いと思っていた。聖人ではない私は、健常者にも、好きな人がいれば、嫌いな人もいるから。それが健常者と障がい者を区別しないスタンスなのでは?とは、今でも少し思っている。
だからこそ「ヘラルボニー(HERALBONY)」、特に松田文登・崇弥兄弟のスタンスに共感している。彼らの兄は、私も大学生の時に向き合っていた自閉症者という。2人にとって自閉症者の兄は、毎日の生活の中に当たり前のように存在する“普通”。だからこそ彼らは、「ヘラルボニー」の作家たちを「才能ある作家」ではなく、「異才ある作家」と捉えているのではないか?彼らが皆、アートの才能を有しているわけではない。そこは健常者と同じで、才能のある人もいれば、そうではない人もいる。でも、もし才能があったら、世に評価されるべきではないか?異才に興味を持つ人もいるのではないか?私の中の「ヘラルボニー」は、そんな問いかけをしている存在。「もし才能があったら、世に評価されるべきではないか?」「異才に興味を持つ人もいるのではないか?」は健常者にも言えること。だから私は、「ヘラルボニー」って究極、健常者と障がい者を区別していないのでは?と捉えている。
そんな風に考える私にとって、2025年9月30日、26年春夏パリ・ファッション・ウイークの2日目は、忘れえぬ日になった。障がい者が2つのショーで、健常者ばかりだった世界に溶け込み始める予感を覚えたからだ。
頭蓋顔面異骨と動静脈奇形のモデルが
挑発的な表現で美の規範を揺さぶる
最初のショーは、「マティエ フェカル(MATIERES FECALES)」。直訳は「排泄物の素材」という、聞く限りはアヴァンギャルドなブランドだ。「リック・オウエンス(RICK OWENS)」のショーでもお馴染みのインフルエンサー・デュオ、ハンナ・ローズ(Hannah Rose)とスティーブン・ラージ(Steven Raj)によるブランドは、ネーミングの通り挑発的な表現でジェンダーや身体性に由来する美の規範を揺さぶる。ドーバー ストリート マーケット パリ(DOVER STREET MARKET PARIS)の支援を受けるブランドだ。
ショーは確かに「リック オウエンス」のように挑発的だった。古典的なドレスを着るのは、さまざまなジェンダー、体型のモデルたち。特権階級の人たちしか着ることのなかった、そして洋服に体を合わせるような感覚のドレスを太った人や男性までまとうことで既成概念に疑義を唱えているのだろう。ハイライトは、パーキンソン病を抱えた高齢の女性モデルと、頭蓋顔面異骨や動静脈奇形という先天性の異常を抱えるインフルエンサー、ニッキー・リリー(Nilly Lily)の登場。パーキンソン病の女性はかつてデムナ(Demna)の「バレンシアガ(BALENCIAGA)」でも登場したが、頭蓋顔面異骨のモデルは少なくとも私の記憶には存在しない(とは言え、彼女はインフルエンサーとしてレッドカーペットなどに登場している)。バラのコサージュを胸元にあしらった、コルセットを内蔵したドレスに身を包んだニッキーの姿に来場者は驚いたかもしれないが、ショーは普通に進行。フィナーレでハンナとスティーブン、そしてモデルたちは拍手喝采を浴びた。
障がい者が美しさの頂点で
普通に存在という「特別」
もう1つのショーは、冒頭の「ヘラルボニー」とコラボレーションした「アンリアレイジ(ANREALAGE)」だ。その詳細は、上の記事の通り。今シーズンの「アンリアレイジ」は、「ヘラルボニー」の18人の契約作家の作品をデザインに落とし込み、衣服にセンサーを入れて自由自在に動かすことを試みた。「ヘラルボニー」のミッション「異才を、放て。」のごとく、洋服を自律的に動かすことで、アートに内在するパワーの存在を訴える。
ショー会場には、「ヘラルボニー」の松田文登・崇弥兄弟はもちろん、18人の中の2人、やまなみ工房の中川ももこさんと、鳥山シュウさんの姿もあった。ショーの前、2人の写真を撮らせてもらった。気さくな人だった。
そして、ショー。18人の作家の作品はさまざまな形で生地に落とし込まれ、フリルやペプラムが内在するパワーを表現する。肝心のセンサーは、最初はオーガンジーなどのフリュイドな素材に搭載してしまったせいか、その動きがセンサーによるものなのか、モデルのウォーキングによるものなのかわかりづらかったが、終盤のペプラムは確実に大きくうねっている。上で紹介した記事の取材時、森永邦彦デザイナーは「まだ、センサーが制御しきれていない。時々、洋服が脱げてしまうことも(苦笑)」と話していた。あれから3週間で形になったのだから、相当頑張って、巻き返したのだと思う。
フィナーレでは、一緒に取材していた同僚にランウエイの動画撮影を託し、私は契約作家の2人、中川さんと鳥山さんを密かに撮影していた。鳥山さんの顔はチンパンジーのお面でわからないが、拍手をしている。中川さんは、とても嬉しそうだった。フィナーレで森永デザイナーが2人を紹介すると、2人は気恥ずかしそうに、でも嬉しそうに席を立ち、拍手喝采を浴びる。これまで数多のファッションショーで、デザイナーが協業したクリエイターを紹介し、彼らもまた拍手を浴びる場面を見てきた。ランウエイショーの世界では「普通」の出来事が今、「アンリアレイジ」とコラボした障がい者デザイナーに対しても起こっている。
上の記事で松田崇弥最高経営責任者は今回のコラボレーションについて、「ある種の美しさの頂点のような場所で重度の知的障がい者たちの命が鼓動するのは、社会運動的でもあるし、周りの人たちに対する希望でもある。『すごく素敵だよ』『かっこいいよね』『アンリアレイジとの新しいクリエイション、半端ないね』などの感想と共に、作品が広がっていくことで人の可能性を見出していきたい。制度を変えてきた運動はあったが、別の種の美しい“社会運動”になるといいな」と話していた。私の感想は、まさにそれだ。忖度なしに「すごく素敵」。作家のアートも、それを素材にした「アンリアレイジ」の洋服も、「すごく素敵」だった。
ショーが終わって、改めて中川さんと鳥山さんに話しかけた。2人とも親指を立てたり、笑顔を見せていたりで誇らしげだ。自分は、号泣している。ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)による最初の「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」以来の大落涙だった。泣いているということは、私こそ、障がい者を特別視しているのだろうか?いや、障がい者がパリ・ファッション・ウイークという世界でも“「普通」の存在になりつつあるという特別”に感動したのだと信じたい。