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ファッションデザイナーの森英恵が逝去、96歳。アジア人初の仏オートクチュール組合会員として活躍

 ファッションデザイナーの森英恵が8月11日、自宅で死去した。96歳だった。葬儀は近親者で執り行われ、後日お別れの会が開かれる予定。森は1977年から27年間、東洋人初の、また日本人唯一のパリ・オートクチュール組合正会員としてパリでオートクチュールを発表した。自身の佇まいそのままに、彼女がデザインする服もまた、品格あるスタイルが魅力であった。

 森英恵は1926年、島根に生まれる。裕福な家庭環境と自然豊かな環境で育ち、将来彼女のシンボルとなる“蝶”の原風景もそこにあった。第2次世界大戦直後に東京女子大学を卒業。1948年に結婚した夫・森賢の実家が愛知県一宮市の繊維メーカーだったこともあり、ドレスメーカー女学院に通った後の51年に洋裁店「ひよしや」を新宿にオープン。装うことを渇望していた戦後の女性たちの間で話題の店となる。また当時は日本映画が全盛で、森は「太陽の季節」「狂った果実」など映画の衣装も手がけ、その本数は数百におよんだ。銀幕スターと接し、映画監督が描く女たちを理解し、場面や登場人物の性格に則した衣装を日夜制作したことが、オートクチュールデザイナーとしての基礎を作ったという。

 ファッションビジネスを本格的にスタートしたのは、63年のこと。わずか2年後には「ハナエ・モリ(HANAE MORI)」ブランドでニューヨークに進出し、まもなく米国の百貨店・専門店から支持を獲得する。米国版「ヴォーグ(VOGUE)」は「EAST MEETS WEST」と評し、蝶をモチーフにしたドレスは “マダム・バタフライ”の愛称で人気を呼んだ。

 後に米国の業界紙「WWD」を日本に持ち返り「WWDJAPAN」創刊に関わったことからも分かるように、森はクリエイションとビジネスの双方に鋭い感性を持つデザイナーであった。ニューヨークで得た成功とマーケティング感覚を携えつつその後、パリへ。77年にはアベニュー・モンテーニュにメゾンを開き、以降新作発表を続け、顧客にはモナコ公国グレース公妃、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)、ナンシー・レーガン(Nancy Reagan)元米国大統領夫人などが名前を連ねた。

 日本が高度成長期にあったとはいえ、一人の女性が後ろ盾もなく、欧米の上流階級の女性たちの心を捉えたことには驚かされる。俳優の黒柳徹子は「森英恵 その仕事、その生き方」(平凡社)の中で1975年に昭和天皇がワシントンを訪問した際、ホワイトハウスでの歓迎晩餐館で米国側の招待客の女性の多くが森英恵のドレスを着ていた光景を「本当に誇らしかった」と回想している。森英恵のドレスは洋装でありつつどこか着物のたたずまいも持つ。海外の人たちはそのドレスに日本という国を見たのだろう。

 森はコレクションの発表を続けるかたわら、日本航空客室乗務員の制服、美空ひばりの復活コンサートの“不死鳥”のドレス、バルセロナオリンピック日本選手団の公式ユニホーム、ミラノ・スカラ座のオペラ「マダム・バタフライ」をはじめとするオペラやバレエ、能、新作歌舞伎の舞台衣装などさまざまな分野でデザインを手がけている。93年には当時の皇太子殿下のご成婚の際、雅子妃殿下のローブ・デコルテをデザインした。

 苦難の時代もあった。ハナエモリ社はバブル崩壊の影響も受け2002年に民事再生法の適用を申請。現在「ハナエモリ」の商標はMNインターファッションが保有している。自身は、2004年を最後にオートクチュールからは引退するも、その後も舞台衣装のデザインなど精力的に活動を続けた。93歳となる19年にNHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」で新曲「あれから」の衣装を担当したことは記憶に新しい。

 70年のデザイナー人生の中で森は多くの仕事、文化勲章やレジオン・ドヌール勲章オフィシエなどの受章歴、そして逸話を残してきた。その原動力については、敗戦を経験する中で「日本には素晴らしい伝統と美意識があると世界に知らしめたいと思ったから」と口にしていた。移ろいやすいファッションの世界で駆け抜け、その役割を十分に果たしてくれた。国際的に働く女性のロールモデルとしても私たちの記憶に残ってゆくだろう。安らかに眠らんことを。心からご冥福をお祈り申し上げる。

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