目の前の若者が描いたスケッチに見入った。作風には独自性があり、感性がきらめいている。「この原石は磨けば光る」――。
1977年、パリ。当時24歳のジャンポール・ゴルチエとの出会いを馬場彰さんはそう振り返る。社長の馬場さんが決断し、無名の新人への全面支援が実現した。彼のためにアトリエを開き、技術者を雇い、生地の手配やショーの経費も負担した。しばらく赤字だったが、可能性を信じて支援を続け、ゴルチエは80年代に大きく花開く。
馬場さんは58年に樫山(現オンワードホールディングス)に入社。既製服アパレルが「つるし屋」と呼ばれて蔑まれていた時代、力関係でずっと上だった百貨店に臆せずユニークな企画を次々持ち込み、ずば抜けた営業成績を残す。
創業者の樫山純三氏に見込まれ、38歳の若さで社長に抜擢された。生来の親分肌はオンワードを体育会系の戦う集団に変貌させた。社名の通り「前へ、前へ」。社長在任23年間で売上高は約3倍の1836億円に拡大。中堅アパレルだったオンワードを業界首位に導いた。
ゴルチエの支援、米J.プレスの買収など早くから海外市場を志向した先見性。ライセンスブランド依存からの脱却のため「23区」「組曲」「五大陸」「ICB」を作った企画力。イトーヨーカ堂が伊勢丹買収に動いた際には、黒子として阻止した剛腕ぶり。政府や業界に働きかけ、JFW(日本ファッションウイーク推進機構)を発足させた行動力。若い頃からの映画好きが高じて、北野武監督作品など複数の映画に俳優として出演する茶目っ気。
逸話や功績には事欠かない。アパレル企業の経営者の枠に収まらないスケールの大きな親分だった。
バブル崩壊後は成長を支えてきた百貨店流通が低迷し、「ユニクロ」「しまむら」「洋服の青山」などカテゴリーキラーが台頭する。デフレも進行し、馬場さんが社長を務めた成長期とは異なる局面に突入した。
その後、グローバル構造改革(2019年、20年)とコロナ禍を経たオンワードは、今、OMO(オンラインとオフラインの融合)で業界の最前線に立つ。自社工場直結のオーダースーツ「カシヤマ」、D2Cの婦人服「アンフィーロ」、OMO業態「オンワード・クローゼットセレクト」など、老舗アパレルの基盤と知見を活用しながら、アパレルビジネスを時代の「前へ」と進める。馬場さんが社長だった頃の体育会気質はだいぶ薄れたけれど、そのDNAは現在に引き継がれている。
(8月5日死去、享年89)