ビームスの最も象徴的な店舗といえば、1976年に6.5坪で創業してから何度かの拡張・改装を経て49年間営業を続けてきた原宿店だろう。あいにく明治通りの道幅拡張に伴うビルのセットバック・一部取り壊し工事のため一時閉店を余儀なくされ、7月27日にクローズ。これを機にリニューアルを図り、50周年を迎える2026年春に新たな姿でお目見えすることになる。(工事期間中は原宿交差点寄りの「ビームス 原宿 アネックス 」2階の仮店舗で「BEAMS HARAJUKU LIMITED STORE」として8月1日から営業中)。7月30日夜には社員向けのイベントを開催。設楽洋社長や歴代の店長ら約200人の社員が集い、ビームスのアイデンティティーの中核である原宿店について語り合い、次世代に文化の継承や発展を託した。設楽洋社長のインタビューを軸に、原宿店の存在意義や創業当時を振り返る。
八百屋跡地の雑居ビルの6.5坪に創業
――創業の地である原宿店は1976年、「アメリカンライフショップ ビームス」として始まった。当時、どんな夢を抱いて店を開いたのか?
設楽洋社長(以下、設楽):原宿にほとんど店がない中で、もともと八百屋さんだった雑居ビルの片隅の約6.5坪というわずかなスペースで、「アメリカの学生のライフスタイルを売る店を作って、若者の風俗・文化を変えるぞ!」という大それたことを思ってスタートしました。今考えるととてつもないことを思っていたなと(笑)。あれから50年。店は何百倍にもなったし規模もデカくなったけれど、当時アメリカンライフショップとしてファッションだけでなくカルチャーを提案して新しい生活文化を作ろうと思っていたことは今もずっと変わっていませんし、少しはそれが実現できたかなと思っています。
――あらためて、原宿を選んだ理由は?
設楽:原宿に時代の風を感じました。60年代までの風俗・文化は夜の遊びから生まれていて、新宿や赤坂や六本木などが中心で、飯倉のキャンティや赤坂の高級ゴーゴークラブのムゲンなどが有名でした。それが70年代半ばに突然、昼の文化になったんです。アメリカではベトナム戦争が終わり、日本では学生運動が終わり、原宿交差点のセントラルアパートにあったカフェ「レオン」に集まり、サーフィンに行ったりスケボーをしたり。はやりの音楽もそれまで暗くて重い雰囲気で、自分も浪人時代や大学時代に新宿のジグやザグや赤坂のムゲンやビブロスなどでソウルを踊ったり、ジャズ喫茶でタバコをくゆらせたりしていたのが、スコーンと晴れた青い空、太陽の下で明るいカリフォルニアサウンドに変わって。これはもしかすると健康的な方向に風が吹いているぞ、時代が変わっているぞと思って。それで若者文化が台頭しつつあった原宿を選びました。創業の年に大ヒットしたのも「ホテルカリフォルニア」でした。
当時原宿にはほとんど店がなくて。セントラルアパートには「レオン」と「ミルク」「マドモワゼルノンノ」のちっちゃい店があって。表参道には「オリエンタルバザー」と「キデイランド」、そして半地下にビギの菊池武夫さんの店、キラー通りにはニコルやハリウッドランチマーケットの「極楽鳥」、そして、竹下通りに古着屋が2軒あったぐらいです。ラフォーレの場所には教会がありました。僕は新宿生まれの新宿育ちだったので新宿という手もありましたが、大資本による大きな百貨店もなく、マンションメーカーが少しずつ立ち上がるなど若い人々にチャンスがあるこれから面白くなりそうな街だと感じて、原宿に決めました。
「人通りのなかったところに自分たちで道をつくる」
――原宿の中で、この場所を選んだ決め手は?
設楽:竹下通りとこの場所と2カ所候補があったのですが、竹下通りでは文化は変えられない。ビームスはストリートから生まれるカルチャーの“パサージュ”として、それまで人通りのなかったところに自分たちで道をつくっていく、そんな意識でやっていきたいという思いもあり、明治通りの八百屋さんの跡地の雑居ビル「ヌアビル」の1階の6.5坪に決めました。とはいえ、在庫置き場も必要だったので、売り場は4坪弱、7畳ぐらいでした。階段下に会計カウンターを配置。最初の半年ぐらいはレジもなくて、八百屋時代に使われていた天井から吊り下げられたカゴに売り上げや釣銭を入れたりもしていました。78年には少し広げてクロージングの「ビームスF」を今のフィッティング部分にオープンしました。2.5坪で月商2500万円という記録はおそらく今後も破られないと思います。
――原宿店で記憶に残る思い出ベスト3を挙げるとしたら?
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