きょう1月17日は、1995年の阪神大震災から30年の節目。建物の3分の2が倒壊した大丸神戸店は存続が危ぶまれる状況だったが、従業員たちの必死の努力によって、約3カ月後には縮小規模ながら営業を再開させた。その後も地元客との関係性を深め、神戸の一番店(売り上げ1位店舗)としての地位を盤石にする。さらに現在は売上高で初の1000億円台を目前にするなど、大きく花開いた。神戸生まれの百貨店関係者2人の目線から「震災と復興」を振り返る。(文中敬称略)
その朝、大学1年生の小野圭一は神戸市東灘区の自宅マンションで飛び起きた。経験したことのない激しい揺れ。「戦争か何かが起きたのか、自分は死ぬのか」とパニックになった。家具が倒れ、ブラウン管のテレビは数メートル先に飛び、食器や本が散乱した。幸い、母と妹2人の家族は無事だった。
状況を確認しようと外に出た。北側には阪神高速道路の高架が東西に走る。その橋げたの下に見えるはずの六甲の山並みが見えない。なぜだろう。恐る恐る近づいた。「見慣れた高速道路が横倒しになったことに気づき、言葉を失いました」。繰り返し報道されたあの倒壊現場である。
自宅の被害は比較的軽かったが、電気・ガス・水道は止まった。昼は近所の炊き出しや配給に並び、夜は仏壇のロウソクに火を灯して過ごした。
正月に年賀状配達のバイトをしていた郵便局から連絡が入った。全国から届く救援物資を届ける仕事を頼まれた。原付バイクの荷台に水や食料を可能な限り積んで走る。道一本挟んで建物が全壊のエリアとほぼ被害がないエリアに分かれるのが不思議だった。「僕が『お届けに来ました』と告げると、皆さんはすごく喜んでくれました」。
百貨店の灯は消さない
大丸(当時)入社7年目の松原亜希子は、震災から約10日後に自宅待機の指示が解かれ、元町の大丸神戸店に出社した。被害が少なかった神戸市西区の自宅から途中までしか地下鉄が運行していなかった。倒壊したビルが多く、道路もガタガタのためバスもタクシーも走っていない。朝晩に片道1時間半を歩いて通勤した。
大丸神戸店は大部分が損壊し、とても営業できる状態ではない。だが震災が起きた1月半ばは初売りやバーゲンで購入された服の裾上げや丈詰めが完成する時期で、引き渡しを待つ商品がバックヤードにたくさん積まれていた。家財を失った顧客から問い合わせが来るようになった。「着るものに困っているお客さま、連絡もできないお客さまがたくさんいる。預かっている商品をリスト化し、電話をかけるチーム、リュックサックを背負ってご自宅まで届けるチームそれぞれしらみつぶしで対応しました」。店が開けられない中、地元の百貨店として何ができるのか、過酷な現実と向き合う日々が始まった。
スーツを購入した男性の自宅に電話したところ、「息子は地震で亡くなりました」と告げられた。「お辛いですね」と言うのが精一杯だった。通常であれば修繕したスーツは再販できないため、返金には応じられない。ただ、それが傷ついた人に寄り添う商売といえるのか。取引先に「大丸も半分持つので損切りしてもらえませんか」と掛け合い、返金に応じてもらった。袖を通すはずの顧客が亡くなり、行き場を失った服はたくさんあった。
3分の1からの再スタート
大丸神戸店長の森範二は店舗近くのビルに泊まり込み、営業再開の陣頭指揮を執った。森は従業員に「皆さんも被災して大変だろうが、どうか力を貸してほしい」と頭を下げた。損壊がひどかったため、再開できる売り場は3分の1だけ。4月8日の営業再開を知らせる新聞広告には「売場が、小さくなります。」のコピーとともに、下記の文章をつづった。
残された建物で、大丸は、できるだけのことをしたいと思います。
春のお洒落なお出かけ着、コーディネートしたい靴や雑貨を揃えます。
いつも焼きたてのパンをご用意します。
震災から3カ月足らず。市民の生活がまだ不自由な現状を踏まえ、営業再開時に衣料品や日用品を大々的にバーゲンする案も出たが、森は「絶対にダメだ」と退けた。明るく華やいだ気分になってもらうことが百貨店の役割だと考えたのだ。震災の前の姿、それ以上のハレの場を提供することが、多くの人々を勇気づけると従業員に説いた。
松原は営業再開の日の光景が忘れられない。午前10時の開店前に2500人が店舗を取り囲み、売り場になだれ込んだ。買い物を楽しむ顧客の笑顔。接客する従業員の弾む声。「大丸で買い物することは、普通の暮らしに戻る第一歩なんだ。それがすーっと体に染み込むように分かったのです」。
顧客と従業員が抱き合う姿をあちこちで見かけた。涙を浮かべて再会を喜び、励まし合う。実は休業中にも顧客から「あの婦人服売り場のスタッフさんは無事ですか」と従業員の安否を尋ねる電話やファックスが頻繁に届いていた。「神戸のお客さまとの深い関係がかけがえのない宝物であり、この期待に応える店を復活させなくては」と強く誓った。
華やかさに憧れて入社
98年4月、小野圭一は新卒で大丸に入社した。子供の頃から家族でたびたび訪れた大丸神戸店の華やかさに憧れていた。小野は震災の3年前に父を亡くした。父は同店勤務の百貨店マンだった。「でも震災で使命感に目覚めたとか、父の遺志を継ぎたいとか、そんな高尚な気持ちではありません。みんなが楽しみに集まる場所で、人を笑顔にする仕事したいと思ったのが志望動機です」。
小野は氷河期世代である。90年代末は金融機関の破綻も相次ぎ、消費増税も景気悪化に拍車をかけていた。百貨店も“冬の時代“と呼ばれ出していた。そんな中でも小野は目の前の顧客を喜ばせることにやりがいを感じ、販売促進やインバウンド施策で新しいアイデアの実現に汗をかいた。周囲を巻き込んで結果を出すことに人一倍こだわった。
2000年代に入ると、大丸は流通再編を先導する。東海地方を拠点にする松坂屋と統合し、大丸松坂屋百貨店が発足した。持ち株会社であるJ.フロントリテイリング(JFR)は、後にパルコを子会社化し、巨大流通グループへと変貌していった。
神戸店長として継承するもの
震災から28年後の2023年3月。松原亜希子は大丸神戸店の店長に就任した。入社以来、キャリアの半分以上を大丸神戸店や同芦屋店、同須磨店などの神戸エリアで過ごした。この数年は松坂屋上野店、大丸東京店の店長などを歴任したが、生まれ故郷である神戸への“帰任“は感慨深かった。
松原は復興の記録を何度も読み返し、退職した元上司たちを訪ねて当時の話を聞いた。「震災から復興は神戸店の原点。もう一度噛み締めないと神戸店のことを芯から分からない気がしたのです」。神戸店を預かる立場になって自問する。当時の店長の森はどんな覚悟で再建に取り組んだのか。店長のリーダーシップはどうあるべきか。自分たちは毎日、顧客に真摯に向き合えているのか――。
コロナ禍に見舞われた大丸東京店の店長時代、復興の経験は心の支えになった。東京駅直結の集客力を売りにした店の人流が途絶えた。従業員に「先が見えない状況だからこそ、前を向かなくてはいけないよ」と繰り返し呼びかけた。新しい催事やコラボレーションを積極的に実現し、パンデミックを乗り越えた。
もっと素晴らしい店にしよう
震災から29年後の24年3月。小野圭一はJFRの社長に就任した。48歳でのトップ就任は大手百貨店グループとしては異例の若さで、小売業の枠を超えた社会的なニュースになった。総額売上高1兆1519億円(24年2月期連結)の巨大流通グループを率いる小野は、「震災の経験が僕の生き方に影響を与えているかは分かりません。感覚としては、自分の心の奥底にあるもののような気がします」と話す。
年末年始に帰省し、救援物資の配達のバイトをしていた地域を久しぶりに訪れた。瓦礫の間を縫うように原付バイクで走った場所だ。「当時の面影が全くない、きれいな街になっていて驚きました」。歳月の流れと人間のたくましさに思いを馳せた。
阪神大震災を振り返る際、小野は「僕は、深刻な被害とその後の復興の力をセットで思い起こします」と言う。深い悲しみを経験したからこそ、震災の前よりもずっと素晴らしい街に再建しようとする人々のバイタリティー。震災の経験から学ぶべきは、そこだと指摘する。
1997年に損壊部分を建て替えて全館オープンした大丸神戸店は、外装に御影石を用いたり、建物の周囲に回廊を配したり、近代洋風建築の意匠を随所に取り入れ、洋館が並ぶ旧居留地のシンボルにふさわしい威容になった。
2024年2月期には売上高を15年ぶりに900億円台に戻し、25年2月期は994億円の見通しだ。初の1000億円の大台も目前となった。訪日客の割合が少ない神戸店は、地元消費によって支えられている。売上高だけが店舗価値のバロメーターではないものの、松原は地元との関係性の積み重ねの賜物だと考える。「神戸店には、一緒に震災の悲しみを乗り越え、一緒に復興を頑張ってきたお客さまとの特別な一体感があるのです。期待に応えるため、これからもピカピカに磨き続けます」。