日本最高峰の時計ブランド「グランドセイコー(GRAND SEIKO)」は2018年から、世界最大のデザインの祭典ミラノ・デザイン・ウイーク(通称:ミラノサローネ)に出展を続けている。23年からは市内のブレラ地区で開催される「ブレラ・デザイン・ウイーク」および「フォーリサローネ」の公式タイムキーパーも務めている。今年は、「THE NATURE OF TIME(時の本質)」展と題して「グランドセイコー」の顔とも言える文字盤で表現する時計作りの哲学、自然に通じる感性や時計全体に宿る匠の技を3人の日本人アーティストの作品を通して表現した。
デザイナーでアーティストの進藤篤(しんどう・あつし)氏の「PULSE OF TIME」という作品は、 時計のダイヤルという小さな宇宙に潜む多層的な奥行きを、最新の3Dプリント技術を用いて空間へと拡張したインスタレーションだ。約600本の光の脈が四季の移ろいや1日の循環を表現するように点滅し、絶え間ない時間の波を来場者に感じさせる。
富山県で400年続く「蛭谷(びるだん)和紙」の唯一の継承者で和紙アーティストの河原隆邦(かわはら・たかくに)氏は、独自の技法で紙の薄さと繊維構造を微細にコントロールした2つの作品を展示。「aurora(オーロラ)」は、巨大な枠に紙の原料を一気に流し込んで作る方法で、光の移ろいに応じて静かに広がるオーロラのような生命力を表現した。もう一つの「うつろい」では、「グランドセイコー」の代表的なダイヤルモチーフ(花筏、雪白、樹氷、水面、白樺)を漆喰と和紙を融合させた技法で可視化している。
映像作家の阿部伸吾(あべ・しんご)氏は「story」 というタイトルで「グランドセイコー」の文字盤のモチーフになっている舞い降りる花びらや降り積もる雪、木漏れ日といった自然の移ろいを示す。ダイヤルのテクスチャーが解ける瞬間を重ね合わせた叙情的なデジタル映像作品で「THE NATURE OF TIME」というテーマを表現した。多くの来場者は作品の前にしばらく佇み、どれにも共通する繊細な光と影、色彩をゆったりと堪能。時計を「時間を測る道具」ではなく、「時間を味わうアイテム」であることを示唆する作品のメッセージは、来場者に確かに伝わっていたようだ。
ミラノサーロネは、知的エリートに
「グランドセイコー」の精神を伝える場
ところで「グランドセイコー」は、この直前にスイス・ジュネーブで開催される世界No.1の時計見本市「ウオッチズ・アンド・ワンダーズ」にも出展して立派なブースを構えているのに、なぜミラノサローネにも出展するのだろうか?
それは、攻略したアメリカと攻略するヨーロッパの時計市場はまったく異なり、これまで通りでは欧州市場は拡大できないという限界をはっきり自覚しているからだろう。「グランドセイコー」は1960年の誕生から60余年、母体のセイコーにも145年もの歴史がある。だがスイス時計には、創業200年を超える老舗ブランドがいくつもあり、ヘリテージや技術的な先進性のアピールでは見劣りせざるを得ない。
そこで選択したのが、「グランドセイコー」の製品やコンセプト、その背景にある日本独特の文化や感性、つまりスイス時計との文化的差異をアピールするというもの。ミラノサローネを文化的差別化を図るための長期戦略として位置付けている。時計ばかりでなくインテリアにも興味がある、ミラノに集まる感度の高いデザイナーや建築家、アーティストといった知的エリートに対して、「『グランドセイコー』=時間の哲学的美学を持つ唯一無二の存在」というイメージを定着させることができれば、彼らはその価値を理解してくれるに違いない。
そしてこの戦略は1990年代後半、まだ「グランドセイコー」が日本国内限定モデルだった時代の服部真二セイコーウオッチ最高経営責任者(CEO)の発言とも合致する。「『グランドセイコー』を世界展開する予定は?」という質問に対して、服部CEOはいつも「スイスとは同じ土俵には乗らない」とおっしゃった。ミラノサローネへの戦略的出展は、結果的に当時のこの発言を踏まえている。
製品のストレートなプロモーションが主体のウオッチズ・アンド・ワンダーズとは違い、ミラノサローネのアート作品は、「グランドセイコー」の精神や哲学を来場者に想起させる。哲学や世界観は、時計フェアだけではヨーロッパの人々には伝わらない。伝える場としては、ミラノサローネのようなアートエキシビションが最適と考えているのだ。「グランドセイコー」はクォーツ式に象徴される先進技術とリーズナブルな価格のブランドという従来のイメージを払拭して、「自然と時間を深く味わうための東洋的な哲学を備えた時計」という、スイス時計とは明確に異なるラグジュアリー・ウオッチブランドとしてヨーロッパ市場を攻略する。
「パテック フィリップ」や
「カルティエ」も哲学を発信
時計ブランドがイベントを通じて哲学や世界観を伝える方法はさまざまだ。2023年に東京でも開催された「パテック フィリップ(PATEK PHILIPPE)」の「ウォッチアート・グランド・エキシビション」のように圧倒的なボリュームで創業から現在に至るブランドの歴史をアピールする方法もあれば、「カルティエ(CARTIER)」」の現代美術財団が主催するアート展示のように商業的ビジネスとブランドイメージを切り離して現代芸術のパトロンとしての地位を強調することで哲学を表現する方法もある。
「グランドセイコー」はこうした先達とは異なり、ミラノサローネという独自の方法を選んだ。日本的な哲学や世界観が当たり前の私たちは「いまひとつ」と思ってしまうかもしれないが、その戦略は長期的にはとても有効だろう。