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仕事が絶えないあの人の、“こうしてきたから、こうなった” 早坂香須子編

 転職はもちろん、本業を持ちながら第二のキャリアを築くパラレルキャリアや副業も一般化し始め、働き方も多様化しています。だからこそ働き方に関する悩みや課題は、就職を控える学生のみならず、社会人になっても人それぞれに持っているはず。

 そこでこの連載では、他業界から転身して活躍するファッション&ビューティ業界人にインタビュー。今に至るまでの道のりやエピソードの中に、これからの働き方へのヒントがある(?)かもしれません。

 第3回目は、ビューティディレクター、メイクアップアーティストとして活躍する早坂香須子氏が登場。インスタグラムなどで発信されるヘルシーなライフスタイルや社会問題と真摯に向き合う姿勢にファンも多い早坂氏。看護師からメイクアップアーティストに転身し「今や“早坂香須子屋”よ」と自身を語る、彼女の仕事変遷に迫ります。

WWD:以前は看護師をされていたのですね。

早坂香須子(以下、早坂):中学時代の仲のいい友人が「看護師になる!」と話すのを聞いて、素直にかっこいいと思いました。ほかに夢がなかった私は、彼女を追いかけて看護師を目指すことに。地元である山形県内の看護専門学校に通って国家資格を取り、東京を勤務地として志望しました。雑誌「オリーブ(Olive)」が大好きで、「東京に住みたい!」というミーハー心が大きかったですね。

晴れて上京し、大学病院の外科系病棟で働き始めました。オペや患者対応で立て込んでも、日勤・準夜勤・深夜勤という交代勤務時間の中で決まった数の点滴を用意したり引き継ぎをしたり……。その日に終わらせなければならない仕事が山ほどあり、毎日が時間との闘い。そんな中でも、窓の向こうに見える上野の不忍池を眺めて「私、今東京で働いているんだなぁ」という喜びもありました。仲の良い同期や尊敬できる先輩にも恵まれていました。

WWD:いそがしくとも充実していたのですね。

早坂:それが 2年も過ぎてくると、仕事もルーティン化してきたように思います。ナースコールが何度も鳴っていた深夜勤務でのことでした。点滴の準備をしようとしたタイミングでナースコールが鳴り始め、「忙しいのに……」と私は舌打ちしてしまったんです。また鳴ってる、またこの人(患者)だ、と。病室へ駆けつけると「足をさすってほしい」。末期がんで闘病中の初老の男性患者さんに、そう言われました。私のチーム担当の部屋ではなかったこともあり詳しい病状を知らなかったとはいえ、そんなことで、というのが正直な気持ちでした。言われた通りしましたが、1分も経たないうちに「お前はもういい!」と……。暗い部屋に響いたのは、断固とした拒絶の声。なぜなのか分からないまま先輩ナースに交代してもらいました。それからしばらく経っても帰って来ないことを心配してそっと病室をのぞくと、患者さんの顔を見ながら優しく足をさすっている先輩の姿がありました。

業務のことで頭がいっぱいで目の前にいる患者さんの表情すら、ろくに見ていなかった自分にハッとしました。その4時間後、容体が急変した患者さんは息を引き取られました。男性はモルヒネで痛みを緩和していたのですが、意識はおぼろげでも私の心のない手に触られ、心底嫌な感触だったろうと思います。申し訳なさと悔しさでいっぱいになりました。私はここにいちゃいけない人間だ。看護師を辞める、そう心に決めました。

WWD:そんなことがあったのですね。

早坂:そもそも看護師を目指したのは、友人の夢を目指す姿がまぶしかったから。それに看護師になれば親も安心するだろう、という全く自主性のない選択だったんです。人って、本当に好きなことをしていないと人に優しくできないのかもしれない、じゃあ私の本当に好きなことって……?退職を決め、自分自身を見つめ直しました。

頭に浮かんだのは、小学生の頃に母親のメイクボックスを触るのが大好きだったということ。母の留守中に、口紅やファンデーションをそっと出しては塗って落として、きちんと元通りにするという一人遊びを数え切れないほどしていましたね。4〜5年生の頃には、どうやったら肌が美しく見えるのか?といった質感のことを考えていたように思います。

WWD:すでにハイレベルですね!

早坂:肌づくりが好きな私の原点ですね(笑)。看護師を辞め、渡辺サブロオ※1さんが主宰するメイクスクールに通い始めました。技術はもちろん、年代別のファッションやカルチャー、映画、そして時代別の女性像について貪るように学びました。カリキュラムは、メイクとヘアがそれぞれ半年ごと。課題提出前には原宿のラフォーレ前でモデルをハントして、ウイッグやビンテージドレスまで用意することもありました。メイククラスなので顔だけ仕上げればよいのだけれど、世界観から丸ごと表現して完成させることに夢中でした。それが下半期になり、ヘアの授業が始まると全然楽しくないんですよ。課題提出では先生から失笑を買うほどでした(苦笑)。

当時はヘアとメイクアップを1人で行うヘアメイクアーティストとしての仕事が主流で、セパレートでの仕事というのはほとんどなかったように思います。ヘアとメイクって、まるで次元が違うくらいに考え方も道具も違うのにヘアメイクしか道はないのか……。そんな思いを抱えたまま、スクールを卒業しました。

※1.日本におけるヘア&メイクアップアーティストの先駆者として地位を確立する。1985年にメイクアップスクール「SASHU W・3260 STUDIO」を開校(現在は休校)

WWD:卒業後はどのような仕事を?

早坂:月に1〜2回、メイクの仕事で声がかかる以外は看護師の派遣バイトをしていました。そんな日々が1年続いた頃、パリから帰国したばかりのメイクアップアーティストyUKIさんがアシスタントを募集していることを知り、すぐに書類を送りました。「アシスタント代は出せないから、アルバイトをしながら来てね」ということだったので、仕事とアルバイトの調整をしながらの生活がスタートしました。もちろん経済的には楽ではなかったけれど、時代の最先端をつくる現場にいられることが何よりも嬉しかったですね。

WWD:その頃のメイクについて教えていただけますか?

早坂:今でこそ艶肌が主流ですが、当時のベースメイクはとにかく粉がメインでしたね。艶感を出す場合は、しっかりお粉で仕上げた上に水スプレーでフィックスするというやり方。一方、師匠のメイクはクリームでしっかりマッサージをしてからファンデーションブラシでファンデをごくごく薄く筆で塗っていき、粉を一切使わない。それで完成するモデルの肌は、まるで水の膜が張ったように艶やかなんです。首やデコルテはもちろん、文字通り足のつま先の先にまで丁寧に艶を仕込むことでメイクとファッションが完成し、最高の写真になるんだということを学びました。yUKIさんの提案からその日の撮影の流れが決まる、ということも何度も目の当たりにしました。そんな師匠の隣にいることで、メイクアップアーティストという仕事に誇りを感じましたね。

1年で独立、順調に見えたが……

WWD:独立までの道のりはいかがでしたか?

早坂:アシスタントとして師匠のサポートはよくできていたみたいです。看護師だったからか、オペ(手術)のように師匠が次にほしいと思うアイテムをタイミングよく渡すことができていたんですね。1年経ったところで卒業し、独立することになりました。順調だったように見えますが1年のアシスタント期間なんて、やっと現場に慣れたという程度。横のつながりもない、仕事もない、という現実を突きつけられました。雑誌編集部に営業に行っても、仕事にはなかなか直結しませんでした。

20代後半の今なら、助産師の資格を取って医療の現場に戻れるかも。きっと親も安心するはず。そう悩んだ末、師匠に思いを打ち明けました。「いいんじゃない。看護師は素晴らしい仕事だよ。でもね、将来、雑誌で後輩が活躍しているのを見つけた時に『悔しい』って思わないならやめてもいいと思う」。そう言われた瞬間に「悔しいです!」と涙が溢れていました。

その頃の私はプライドばかり高くて、好きなことを仕事にするという覚悟が足りなかったんです。看護師に戻るのではなくあえて助産師の資格を、と考えたのも、頑張ったのにダメだったと思われたくなくて他の道を用意しようとしただけ。メイクアップアーティストになる!と、迷いが消えた私は仲間たちと毎週のように作品撮り※2をするように。そこで出会ったカメラマンやスタイリストの紹介で徐々に仕事が増えていき、営業をしなくても気づけばメイクの仕事だけで食べていけるようになっていました。

※2.カメラマン、メイクアップアーティスト、ヘアメイク、スタイリストなどが自分の仕事をPRすることを目的として行う撮影

WWD:その頃、特に手応えを感じた撮影はありますか。

早坂: 2001年の雑誌「スウィート(sweet)」ですね。佐田真由美さんら、当時アップカミングなモデルや女優を8人ほど起用したページがありました。彼女たちが普段仕事でするフルメイクではなく、師匠仕込みの薄膜肌と赤リップのみ、カラーアイラインのみなど、ワンポイントで仕上げてみるとそれぞれのモデルが持つ個性がぐっと引き立ったんです。モデルからは「自分の顔が新鮮!おしゃれ!」「こんなに軽い肌は初めて!」と驚きの声が上がり、読者からも大きな反響がありました。外国人モデルのような抜け感のあるメイクを、日本人女性に似合うやり方で再現できた瞬間でした。私の生きる道は、ここにある。そう心から思えた印象深い撮影です。その頃から「テレビに出ている顔とはちょっと違う面を見せたいから、かずちゃんにお願いしたい」と、女優のメイクアップや雑誌の表紙撮影の仕事が増えていきました。

WWD:メイクの枠を超え、内面の美容についても積極的に発信されています。それを意識するきっかけがあったのでしょうか。

早坂:もともとアトピー持ちで、看護師を辞めた頃はひどい肌荒れに悩んでいました。そこで食べ物を見直してみたんです。菜食かつ糖質抜きの食生活で、主食は小松菜やホウレン草などの葉物です。ストイックな食事療法だったけれど、私の体質と食の好みに合っていました。1年半ほど続けると肌荒れは姿を消していて、精神的にもエネルギーに溢れるように。メイクスクールには毎日、大きなタッパーにサラダを詰めて持って行っていたので友人から「青虫」って呼ばれていました(笑)。植物ってすごい……!それを体で実感できたんです。アシスタントになってからは、仕事と並行してアロマテラピーの勉強を始めました。独立後はますますハーブや植物そのものへの興味が広がり、個人の先生のもとで勉強するために仕事の休みを取って沖縄まで行ったこともあります。最近では植物療法士・森田敦子さん主宰のスクールでフィトテラピー(植物療法)を学び、フィトセラピストとしてもデビューしました。

WWD:2016年にはスキンケアブランド「ネロリラ ボタニカ(NEROLILA BOTANICA)」を立ち上げられました。

早坂:表参道にあるオーガニックアロマスパ「シンシア・ガーデン(SINCERE GARDEN)」と一緒につくりました。私だけだったら、自分がメイクする女性たちがさらにきれいになってくれたら嬉しい、というパーソナルなところで止まっていたと思うのですが、オーガニックコスメのノウハウと農家さんや地方自治体とのつながりを持つ企業と組むことで、ブランドの存在=社会的なベネフィットになれると感じたんです。「ネロリラボタニカ」の製品は、耕作放棄地(後継者がいなくて放棄された土地)を畑にして、そこで自然農法や有機農法で育てたオーガニック植物エキスから作られています。ブランドを始めて間もない頃は、こうしたことを語るのは押し付けだと考えていました。でも、ブランドの1周年イベントで土壌再生の話をしていたら何人ものお客さまが涙を流して耳を傾けてくださったんです。自分が使っているコスメが実は環境にいい、という奥ゆかしさより、このブランドを使うことが社会貢献の一環になる、ということを堂々と発信していかなくちゃという責任を感じるようになりました。そして、売れるということももちろん大事。それは人に認められたという証しですし、持続可能な取り組みには不可欠な要素ですから。

“早坂香須子屋”でありたい

WWD:仕事の幅が広がっていく中で心境の変化はありますか?

早坂:20〜30代前半までは“メイクアップアーティストの早坂香須子”であることにものすごくこだわっていました。「ヘアメイクさんじゃないです!メイクアップアーティストですから!」みたいな(笑)。メイクだけでは美しさは語れないと実感するようになった今、求められることがあればなんでもやります!という気持ちです。“早坂香須子屋”という感じかな。

挫折や嬉しいことも含めて経験を重ねることで、自信を持てるようになってきたのだと思います。私にできないことも、もちろんあります。それを認めて興味のあることに素直に飛び込んでいったら、いつのまにか自分の色と呼べるものが出てきたように思います。若い頃は、やりたいメイクをモデルさんに押し付けていたこともありました。今は、その人がどうしたら一番輝けるかが最優先。撮影現場では(私は)いるだけでいいんだ、と。そう肩の力が抜けるようになりました。

WWD:今後の展望や夢はありますか?

早坂:食べることも買い物も大好きなんです。その際に何を選ぶかという基準は、環境に負荷をかけ過ぎないか、世界の反対側の労働力を搾取していないか、ということ。自宅のマンションも100% 自然エネルギーで賄っています。自分だけが幸せならそれでいい、ではなくてできるだけ多くの人が幸せになる方法に意識を巡らせたい。私、100歳まで仕事したいんです。仕事が大好きなんですよね。とはいえ、おばあちゃんになってもどこかキラキラとして輝いていないと、誰も見向きもしてくれないはず。体のメンテナンスに気を配りながら学び続けたいし、発信し続けたいですね。

WWD:最後に、ビューティ業界を目指す人へエールをお願いします。

早坂:「やる!」と腹で決めたことは必ずうまくいきます。決めるか決めないか、それだけなんです。時間やお金がない、子どもがいるから無理……。それは不安があるから自分にダメ出しをしているだけかもしれません。まずは決めること。どうなりたいかのビジョンを明確に持つこと。そうすれば物事は自ずと動き出しますから。