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東京ストリートの異端児「ネオンサイン」が10周年、富山の“不良”がデザイナーになるまで

 林飛鳥デザイナーの「ネオンサイン(NEON SIGN)」は、2009年のブランド立ち上げから今年で10周年を迎えた。東京・渋谷の「トランク ホテル(TRUNK HOTEL)」では節目を記念したポップアップショップを9月8日まで開き、限定品の販売も行っている。

 同ブランドはメンズウエアからスタートし、現在ではウィメンズ・コレクションも発表している。オーバーサイズやレイヤードを得意とすることから“ストリート系”とカテゴライズされがちだが、「ネオンサイン」の服はグラフィック頼みのブランドとは異なる奥行きがある。複雑な構造に挑戦しながら、それを難しく見せないキャッチーなムード、そして林デザイナーの自由な感覚やカルチャーを帯びたコレクションは若者を中心に支持が高く、現在の卸先はメンズとウィメンズ合わせて45アカウント。年間売上高は3億円を超え、クリエイションとビジネスの両面で着実に成長を続けている。そして10周年という節目に、林デザイナーは新たな野望をぶち上げた。婦人洋品店の息子が“不良”時代を経て若手を代表するデザイナーの一人になるまでの、たたき上げの歴史を本人に聞いた。

「高橋盾さんになりたい!」

 林デザイナーは富山の婦人洋品店の息子として育った。幼いころから母親が富裕層の顧客を相手に接客し、売り手と買い手が駆け引きするのを目の当たりにしてきた。欲しい服は、ファッションに厳しい百戦錬磨の母親に“プレゼン”が必須だった。兄の影響で小学5年生から「アンダーカバー(UNDERCOVER)」を着始め、中学2年生でファッションの道で生きて行くことを決めた。「デザイナーというよりは、高橋盾さん(『アンダーカバー』デザイナー)になりたかった」と林デザイナーは当時を振り返る。夢への思いは日に日に強くなり、高校へは進学せずに高橋盾の母校である文化服装学院に入学することを決意する。だが、同学院入学のためには高卒以上の学歴が必要なことを当時の林デザイナーは知らなかった。「早く先生に相談すればよかったのに反抗期だったから黙っていて。卒業直前になって高卒以上が入学条件だと知り、焦って私立の高校に滑り込みました。でも気持ちは文化だったので、毎日朝までスケートしていましたね(笑)」。

 文字にできないほどの紆余曲折がありながらも高校を無事に卒業し、いよいよ上京して念願の文化服装学院に入学。“不良”だった高校時代からは一転し、服づくりやデザインに夢中になっていった。しかし「アンダーカバー」への就職はかなわず、07年に卒業後はメンズブランドに約1年間勤務後、「ネオンボーイズ」を掲げて服作りを始めた。「たまたま自分で作った服を原宿の『ア ストア ロボット(A STORE ROBOT)』に着て行ったら気に入ってくれて、委託で置いてもらえることになったんです。『ネオンボーイズ』は好きなパンクバンドに由来していて、服にマッキーで名前を手書きして売っていました」。パンク直系のクリエイションが都内セレクト店の目にも留まり、本格的な展示会の開催に合わせてブランド「ネオンサイン(NEONSIGN)」を09年に立ち上げた。「カラフルなネオンサインのガラス管が自分だとしたら、中のガスはクリエイション。何色にでもなれるけれど、出せない色もある。そこが何だか人間っぽくて好きなんです」。

苦境からの転機となった出会い

 「ネオンサイン」は、シャツから作り始めた。デザインや服作り、それを自ら手売りするなど全て1人で運営していたものの、最初から順風満帆とはいかなかった。ただひたすらアトリエにこもり、「作って作って作りまくっていました。おかしくなりそうだった」。立ち上げから約2年間は苦しいシーズンが続いたものの、12-13年秋冬シーズンに大きな転機が訪れる。スタイリスト、高橋ラムダとの出会いだった。ジャンルや既成概念にとらわれない高橋ラムダの感覚は、林デザイナーにも刺激を与えた。「知り合いの紹介でラムダさんにルックのスタイリングをお願いできることになったのであらためて気合が入り、アイテムをトータルで作り始めました。最初は鳴かず飛ばずだったけれど、少しずつ都内の有力店にも見てもらえるようになっていきました」。自由なアイデアから生み出されるトータルアイテムと高橋ラムダが手掛けるルックの独特なムードが徐々に注目を集め、「O 代官山」や「ザ・コンテンポラリー・フィックス」など卸先は全国に20アカウントまで広がっていった。

 その後もブランドの勢いは止まらず、16-17年秋冬コレクション“ゲットーチャイルド”は16年春夏シーズンよりも売上高が3倍にまで急成長し「正直、怖かった。自分でハンドリングできる規模ではなくなっていったから」。知名度が飛躍的に上がったためいったん冷静になり、増え続けていた供給量と卸先を少しずつ絞りながらウィメンズや新ラインを立ち上げた。「いろいろジャンルを切り分けてデザインしてみたけれど、しっくり来ませんでした。型にはまらないのが『ネオンサイン』だし、時代的にもメンズウィメンズの境界線はなくなりつつあります。だから19-20年秋冬シーズンでは“人”のためにデザインしたかったんです」。レインボーカラーに溢れた同シーズンはこれまで以上に性差やジャンルがフラットになり、服作りを純粋に楽しむ感情がにじみ出すコレクションとなった。「個人的には過去最高の出来栄え。でも同じことを繰り返したくないし、『ネオンサイン』を続けていく以上は、これまでと同様に新しいことをやり続けていきたい」。

 高橋盾に憧れてデザイナーになり、10年が経った。納得のいくコレクションが発表できた今、次なる野望は「アンダーカバー」も活躍するパリ進出だ。「自己資金でパリでのショーができるほど規模は大きくないので、ゲリラ的なことでもいい。ショーではなくても、昔みたいに手売りしても面白いかも(笑)」。海外進出は、当然ビジネスのためでもある。しかし林デザイナーの言葉からは、ただおもしろいことがしたいという強い思いを感じる。パリ進出がすぐに実現するかはまだ分からない。もしかするとショーの舞台は東京だったり、まったく違うことをしていたりするかもしれない。でもそんな予測不可能さが林飛鳥であり、「ネオンサイン」の魅力なのだ。何にもこびることなく、大好きなファッションを夢中で探求する素直な姿勢が人を引き付ける理由の一つであるのは間違いない。たとえ10年20年後にブランドを取り巻く環境が変化しても、それだけはきっと変わらないのだろう。