
「食」が旅の目的になる時代。土地と深く結びついた旅の体験としてのデスティネーション・ガストロノミーが注目され、東京西部、多摩エリアでも存在感を増している。西多摩の山林や東京の島々に広がる多彩な自然の中で、土地の生産者と料理人の技が交錯し、その土地ならではの味覚や時間の流れを感じる体験が生まれる。
2023年秋、あきる野市にオープンしたフレンチレストラン「ラルブル(L’Arbre)」は、東京都指定有形文化財「小机家住宅」に店を構える。一部改修された築150年以上の建物が、土地の歴史と文化を映す“テロワール“を体感させ、食の体験をさらに深める。オーナーシェフの松尾直幹は、自ら畑を耕し、環境に配慮した野菜やハーブを育て、地元食材とフランス料理の技法を融合させた五日市らしいフレンチを作り出し、訪れる人々に土地の物語と時間の深みを届ける。松尾に、食材や料理のこだわり、東京のローカルフレンチの舞台裏を聞いた。
PROFILE: 松尾直幹/「ラルブル」オーナーシェフ

まずは土地の歴史から学ぶ
――パリで働いていた際に、地元・多摩の食材を使ったフランス料理を提供したいと思うようになったそうですね。
松尾直幹(以下、松尾):土地が違えば食材も環境も違うため、フランス料理を真似しても同じものは作れません。その要素をいかにこの土地に置き換えていくかが大切です。店で提供しているのは、便利な食生活や急速な都市化によって失われていく食文化を今の形で伝えていくことです。
その1つは薪を使った料理です。昔、ガスはなく炭よりも薪を日常で使っていました。冷蔵庫のない時代ですから保存方法は塩漬けか乾燥、燻製、あるいは発酵させるか。どうやって食べていたのかを想像しながら料理を作っていると、自然にその土地独自の食文化が見えてくるはずです。そういったことを想像できるのも食の力ですよね。
――ご自身で畑を耕し、伝統野菜を積極的に使われているんですか?
松尾:環境に負荷のかからない栽培方法で野菜や果樹、ハーブを育てています。農薬を一切使わず、薪を使った際に出る灰、卵や貝の殻などを畑の土の酸度調整に活用しています。あきる野は、「のらぼう菜」や「秋川牛」「東京軍鶏」といった在来の野菜や食材を育んできた土地あり、こうした地元の食材の魅力と伝え、お客さまと生産者をつなげることも料理人の仕事の一部だと思っています。
在来種や固定種、伝統野菜も、食べる人がいなくなれば失われてしまう食材です。野菜の個性はお店の個性でもありますから、普段食べている野菜との風味の違いを感じ、その美味しさを知ってもらいたいですね。
――どのようにして、この土地ならではの料理や食材を知るのですか?
松尾:農家や地元の方々、山菜取りに行った時に偶然会ったおじいちゃんが教えてくれたり。そういったことは誰も紙に残していないため、聞いた内容に着想を得て、再構築した料理をつくっています。
――毎回「多摩島」で始まるディナーコースは、どのような考えで作っていますか?
松尾:テーマは「多摩と島から始まり、多摩と島で終わるストーリー」です。一品は伝統野菜を使うようにし、2カ月ごとにメニューを刷新しています。食材が豊富に採れる時期はインスピレーションで決めますが、ない時期は手に入るものの中で考えます。
――先日2周年を迎えられたときに「王道のフランス料理」を提供されました。通常は“王道ではない“フレンチを提供されていますが、そこにはどのような考えがあったのでしょうか。
松尾:王道のフランス料理は1皿の中でいろんな要素が重なり合っておいしさが完成します。お刺身とわさびのように2つの組み合わせで完結するのではなく、マリネなら酸、油、塩に加え、ハーブやスパイス、香味野菜など、いくつかの要素が合わさって“ひとつの味“になる。さらにワインとのペアリングで完成度が高まります。あとは“奇をてらわない“こと。文化的な根っこがしっかりとありながら進化を続ける完璧な料理です。
一方、ここで提供しているのは100年後にはこの地で“文化“として根づいていてほしいという思いでつくる「五日市のフランス料理」です。良い意味で「フレンチっぽくない」と言われることもありますが、3ツ星のフレンチのお店でキムチを使う時代ですから、あまり料理をカテゴライズせずに楽しんでもらいたいですね。
自分の軸にあるフランス料理を学んだからこそ、素材の味をどう活かし、どう調和させるかという技術で、この土地の食材の良さを最大限に引き出した「この土地ならではの一皿」になります。
“おいしい“の先に広がる、東京テロワール体験
――小机家住宅の独特の佇まいは、料理と空間の一体感をより深いものにしています。
松尾:トータルプロデュースは欠かせません。皿の上だけでも料理としては成立しますが、空間や食べる人との組み合わせがあってこそおいしい食事になる。皿だけで完結させず、空間まで整ってこそ、一皿一皿に土地の物語や空気が宿り、ここに来た意味が自然と生まれると思います。
この場所に入った瞬間から、料理が出る前のひとときも楽しんでいただきます。それは“食べる前のウォーミングアップ“。きれいだけでは心は動きません。レストランは非日常を演出する場所ですが、居心地の良い椅子や照明、さりげない小物や空間の温かさによって、居心地の良さを感じる空間であるべき。心が落ち着いてこそ、料理は自然に染み込んでいきますから。肩肘張ったり、緊張しながら食べても“おいしい“の限界は超えてこないですよね。
――人は何に“おいしい“を感じると思いますか?
松尾:心の琴線に触れるのは、体験に基づく“おいしい“に出合った瞬間です。ふと、自分が生まれ育ったときに味わった感覚が重なることもあります。郷愁感も大切なテーマの1つで、たとえば薪の香りには人間の本能に刻まれた安心感があり、自然と心が落ち着きます。
常に「文化とは何か」を探究しています。文化はすでに存在するものか、それとも作り出すものなのか。畑でも料理でも、「なぜこうなるのか」と問い続けることが大切です。料理人に一番大事なのは、問い続けられるかどうかです。「私が作ったから美味しいはず」という自己満足ではなく、「この素材を使う意味は何か、どうしたら美味しく感じてもらえるか」を考え続けています。
――あきる野市だからこそ感じられる豊かさを教えてください。
松尾:人のあたたかさが一番ですね。このあたりは東京とは思えないほどのどかさで、おじいちゃんが子どもの面倒を見たり、子どもたちが挨拶をしてくれたり……そんな日常があります。都心だと、お店を存続させるために料理以外にやらなければならないことが多く、気がつくと料理に集中できないことも多かったです。でもここなら、料理で表現することに集中でき、自分の世界観をしっかり引き出せます。
都心で働いていたときから、東京都も地方の1つだとずっと考えてきました。地元が多摩エリアなので、食材や鮎が釣れる場所にも馴染みがあります。私の中では「東京=多摩エリア」という感覚があって、都心はそれとは別のカテゴリー、という印象です。
――3年目となる来年に向けて、思い描いていることを教えてください。
松尾:初年度は「店を知ってもらう年」でした。美味しさをベースに、習ってきた料理を継承しつつ、自己紹介のように料理をお出しする年。2年目は調味料や手法も整ってきて、「本当はこういう料理がしたい」という想いを形にできました。3年目は自分が本当にやりたいことを思い切り表現できる年になりそうです。
遠方からでも、食べることを心から楽しみにしてくれるお客さまばかりです。静岡や栃木の方々が集まったり、都心から来る方にとっても、23区ではない“東京とは何か“を感じられる場になっています。「東京の食材」を知りたいと来店してくださる方々に、東京の伝統料理や食材の魅力を伝えられたときは本当に嬉しいですね。
PHOTOS:SEIJI KONDO