
1993年から上海在住のライターでメイクアップアーティストでもあるヒキタミワさんの連載「水玉上海」は、ファッションやビューティの最新トレンドや人気のグルメ&ライフスタイル情報をベテランの業界人目線でお届けします。今回は上海の老舗ホテル「和平飯店」でスウォッチが行うアーティストレジデンスについて。上海在住の日本人写真家の谷田貝慎さんの滞在制作に迫ります。
何年も前、「ピースホテル(和平飯店)にアーティストが住み込みで作品を制作している」と聞いたことがあった。それは「アーティスト・イン・レジデンス(Artist in Residence)」と呼ばれるもので、世界中のアーティストを一定期間招き、滞在中の活動を支援する国際的なプログラムである。
「和平飯店」といえば、上海を代表する老舗ホテルのひとつ。1908年にパレスホテルとして建設され、後にピースホテル南館として知られるようになったこの歴史的建築は、外灘(がいたん)と南京東路の交差点という一等地に位置する。
スウォッチ(Swatch)は2011年から、その由緒ある建物で「Swatch Art Peace Hotel」という現代アートに特化したアーティスト・イン・レジデンス・プログラムを展開している。
滞在制作を行った
谷田貝慎さんに聞く
このプログラムには、著名なアーティストから将来有望な若手まで、ダンサー、音楽家、写真家、映画作家、作家、画家、コンセプチュアル・アーティストなど、多様な分野のクリエイター12〜15名が世界中から参加する。3〜6か月の滞在期間中、それぞれ専用のアパートメントとワークショップで生活・制作を行い、上海に根ざした創作活動に取り組む。
少人数制のため、参加アーティスト同士の自然な出会いや交流が生まれ、創造的な対話や共同制作の機会も広がる。感情、喜び、革新、挑発というスウォッチの精神が、この場所に脈打つアートの鼓動を支えている。
滞在の締めくくりには、各アーティストが「芸術的な痕跡」を残すことが求められる。明確なテーマのもと作品を完成させ、ホテルに寄贈。それらの作品は、今後のイベントなどで展示される。
過去14年間で、このプログラムに参加した日本人アーティストは1組と7名。今回話を伺った写真家・Shin Yatagai(谷田貝慎)氏は、その中で初の男性アーティストである。立教大学で文化人類学と油絵を学び、イギリスへの留学や山本耀司での勤務を経て写真表現へ転向。精神性と視覚の関係性をテーマに、東京にスタジオを構えながら、パリ、アントワープ、中国、台北などで「WWD』や「Harper’s Bazaar』などの雑誌で、ファッションや静物の撮影を手がけてきた。ストックホルムのジュリア・ヘッタのもとで研鑽を積んだのち、「文化人類学専攻で歴史を学ぶ中で中国の古典文化に興味を持ち、上海のダイナミックな経済圏の中で仕事がしたい」と考え、2024年に拠点を上海に移した。
アート・イン・レジデンスへの応募のきっかけは、「すでに上海在住で移動の必要がなく、これほど贅沢な場所で制作できる機会は世界中を見ても稀だったから」。2023年夏に応募し、2024年の夏に合格通知を受け、今年2月から5月までの3か月間滞在することとなった。
滞在中の4月11日には、4名の写真家によるグループ展「都市への接近」とトークショーが開催された。谷田貝氏は、上海や蘇州、雲南、内モンゴルの4都市で撮影した「鍵」の写真を展示し、トークショーでは「上海は歴史的建築と整った物流体制を持ち、創作に必要な素材を迅速に入手しやすい。伝統と現代が交差する文化や多様な人々との交流も、創作の刺激となる魅力的な環境である」といった視点を語った。
「卒業作品」として取り組んだのは、中国文化の概念「陰陽」をテーマとしたシリーズ。自然そのものを作品化するのではなく、インクを用いた創作と撮影を融合させ、自身の技術で構図や色彩を探りながら、新たな表現を追求していった。
滞在終了間際に再び彼を訪ね、レジデンスの生活を振り返ってもらった。「5セットの作品は構想通りに完成。予定していた成果は70点だったが、予想していなかった出会いや経験で130点。合計200点分の満足感だった」と語る。
中でも、ギャラリーとのつながりや、他のアーティストの制作現場に立ち会う中で学んだ思考法や姿勢が、大きな収穫だったという。AIの活用や行動力への刺激もあり、考え方に変化が生まれた。
また、「写真を撮るだけではアーティストとは言えない」と再認識。マーケティングやブランディング、営業といったビジネスの視点が欠かせず、アーティストであると同時にビジネスマンである必要性を実感したと語る。
自身の核には常に、物事を前に動かすエネルギーがある「中国」がある。アジア人としてのアイデンティティを出発点に、東方美学を自らの感性で追求し、今後はコマーシャルとアートの二軸で活動を深めていきたいという。
最後に、ギャラリーに収めた作品について。タイトルは「陰陽九相/Echo of the Ninth」。これは陰陽の概念を動的に再解釈し、太極図をベースに、光と影によってその姿を変化させるシリーズである。「九」は変化と再生の象徴であり、九つの変奏は、陰陽のサイクルが螺旋状に進化していく過程を表現している。