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「リステア」創業者の高下氏が語る、創業から辞任までの舞台裏

 「平成に最も輝いたラグジュアリー・セレクトショップ」といえば「リステア(RESTIR)」ということに、当時を知る業界関係者なら誰もが異論はないだろう。そのリステアを率いた高下浩明氏が4月28日付で社長を辞め、会社にも別れを告げた。2015年4月28日にトゥモローランドが筆頭株主になってからちょうど4年の月日がたっていた。来年の再始動を前に、当時のリステアが輝いていた理由や目指していたビジネスモデル、今後の展望などを聞いた。

―なぜ創業したリステアを辞めたのか?

高下浩明(以下、高下):平成に入る直前に始めたビジネスだったので、31年経ち、平成が終わるタイミングで辞めることを決めた。

高下氏は1987年に婦人服専門店「ルシェルブルー」を神戸でスタート。1990年代にセレクトショップにオリジナル商品をミックスしたセレクトSPA型にシフトすることで一気に業容を拡大した。そうした中、2000年にスタートした大型セレクトショップ事業が「リステア」だった。第1号店は神戸だった。

―当時なぜ大型のセレクトショップを?

高下:ファッションを中心に世界中から新しいものを集めてお客さまを感動させたい!という思いがあった。

翌年の01年に銀座に路面店を出店すると、欧米のラグジュアリーブランドとの取引きが本格化。05年には社名をリステアに変更した。グッチ(GUCCI)グループ(現ケリング)とバレンシアガ・ジャパン(BALENCIAGA JAPAN)を設立したり、ゴールドマン・サックス(GOLDMAN SACHS)と合弁会社も設立するなど、ラグジュアリーを起点に事業の多角化を推し進めた。

07年3月、東京ミッドタウンに2フロア1000平方メートルの旗艦店をオープン。立ち上げ時に「シャネル(CHANEL)」のポップアップストアを仕掛け、一大センセーションを巻き起こした。今は「イセタンサローネ」になっている場所だ。

―「シャネル」との取り組みの背景は?

高下:「シャネル」との取り組みは1本のメールから始まった。注目を浴びる商業施設のオープニングなので一緒に面白いことを仕掛けませんかと、自分からメールを送った。そこからジャパン社のリシャール・コラス(Richard Collasse)社長(当時)と意気投合し、パリ本国も大いに乗り気になってくれた。

 当時、銀座や表参道にはラグジュアリーブランドの旗艦店がたくさんあったが、六本木には六本木ヒルズにいくつか出店しているほかはほぼ空白地だった。しかも、渋谷・新宿・東京・品川といった東京の大ターミナル駅のどこからも同じくらいの距離感で、いわゆる東京の真ん中にあるのが六本木だった。そこに「リステア」はラグジュアリーブランドを集め、いわゆるセレブが買い物できる空間をつくった。こうした鋭い嗅覚は高下氏ならではのものだ。

ー「リステア」は黒を基調とした内装で、VIPルームでは女優やスポーツ選手、アーティストなどのセレブがくつろいだり、盛り上がっていたりしたのが懐かしいですね。

高下:お客さまが目立ないよう暗い店にして、あえて普通の人が入りにくくした。そのビジョンが時代のニーズと合致した。当時のお客さまは、入店してわずか10分で「ここからここまで」みたいなラック買いをされたり、一度に1000万円以上買われるお客さまもいらっしゃった。店やイベントに相当お金をかけたことで、お客さまにも喜ばれた。「シャネル」の後も、「フェラーリ」や「ランボルギーニ」、「アウディ」などと一緒にプロモーションを手伝った。その度にセレブもメディアも集まってくれた。リステアは顧客に価値があった。ブランドの方々は、そのお客さまとつながりたいという思いがあった。そこをうまくつなげるのがリステアでありわれわれのビジネスの重要なポイントだった。

―「お客さまを選ぶ」というのは、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)やセレブが集った、ニューヨークの伝説的クラブ「スタジオ54」のようだ。

高下:そう、「リステア」はまさに「スタジオ54」がコンセプトだった。「シャネル」との取り組みは米国版「WWD」にも取り上げられたことで、海外のラグジュアリーブランドの見方も変わっていった。バブルだったのかもしれないが、店も事業も本当に好調だった。ピーク時はミッドタウンの1店舗だけで20億円ぐらい売り上げがあった。ただ僕の考えではセレクトショップの究極的なゴールは、バレンシアガ・ジャパンのように、海外ブランドの日本法人を設立して、日本ビジネス、さらにはアジアの窓口となることだった。だから「リステア」はもうけることよりも、その窓口的なショールームであり、楽しんで興奮してもらう場所であることが大切だった。当時はひたすら、「赤字を出せ」「売れるものを仕入れるな」「エッジの利いたものを買え」「タグの値段は見るな」「ブランドのジャパン社になろう」と言い続けていた。バイヤーは本当に楽しかったと思う。あのままうまくいけばよかったが、全て08年のリーマン・ショックで計画がストップしてしまった。ちょうどリステアをホールディング会社化し、これから子会社が伸びていくというタイミングで、とんでもなく大きな事件だった。

―リーマン・ショックによって高額品を含め、消費が一気に冷え込んでしまった?

高下:それ以上に、ゴールドマン・サックスとのジョイントベンチャーが痛かった。設立したリステアインベストメントを通じて不動産ビジネスに参入しようと資金も調達していた。初めて話すが、実は東京ミッドタウンのリステアを芝浦に移転させようと計画していた。お客さまの多くは車かタクシーで来られるので、都心のど真ん中の家賃が高い場所にお店がある必然性がなかった。土地が安い場所に店を移し、人を呼び、“平成のゴールド(昭和に人気だったディスコ)”にしようと考えていた。ゴールドマン・サックスからはトータルで18億円出資してもらい、金融機関からも数百億円調達して、土地を買い、開発したり、余った土地は売却して利益を再投資しようとプランニングしていた。けれども、6人いたゴールドマンサックスのリステア担当者が1週間でみんな解雇され、担当者もいなくなってしまって。合弁会社をどう解消するのか、弁護士を交えて相当揉めた。その後2年間ぐらいは本当に大変だった。契約書に地雷が埋め込まれていたり、個人宛にも内容証明が来たり。ゴールドマンサックス関連の借金は30億円に膨らんでいて、8つの銀行から借りてなんとか返済できた。バレンシアガ・ジャパンはグッチグループが好意的に収めてくれて提携を解消した。けれども、その最中の11年の東日本大震災で今度は銀行から返済の督促が始まった。

―ミッドタウンからの移転は?

高下:違約金や原状復帰で3億円ぐらいかかるため、出ていくことも新たに攻めることもできなかった。結局、13年に婦人服専門店のスタニングルアー社を瀧定大阪に売却、その資金で借金を返済するとともに、14年にはミッドタウンを出て、篠山紀信さんのスタジオ跡地に店を移転することができた。

―トゥモローランドに傘下入りした理由は?

高下:借金は返せたが、売上高25億円、営業利益率25%という稼ぎ頭のスタニングルアーを失い、翌年には収益が真っ赤っかになってしまった。自力では間に合わないと、佐々木啓之会長率いるトゥモローランドに第三者割当増資をしてもらった上、自分の株も買い取ってもらった。同じセレクト業態で、欧米ブランドと提携してブランドビジネスもしていたし、ニューヨークに出店するなど、グローバル企業になろうとしていたタイミングだった。われわれが持っている海外ブランドのネットワークが生かせる点や、カルチャーが大きく異なる点などを評価してもらえてのことだった。

―なぜ、辞任することに?

高下:残念ながら1年ほどで方針が変わってしまった。提携していたブランドと次々と契約を終了したり、デザイナーズブランドの取り扱いを大幅に減らしてオリジナルに集中したり。対話もできなくなってしまった。ちょうどロックアップ(ある状態を一定期間維持する契約のこと)期間が終わり、平成も終わるタイミングで、辞任することを決めた。でも、佐々木さんには感謝しています。

―リーマン・ショックの影響がこんなにも大きかったとは…。リステアをこれからも担っていくスタッフたちへのメッセージは?

高下:株式公開を目指していたので、リーマン・ショックがなかったらリステアもまったく違う形になっていたと思う。銀行出身で投資会社を手掛けていた吉川(稔・現東邦レオ社長)さんに副社長を務めてもらったのも上場を見越してのことだった。好きな子たちに好きなことをさせ、それをどうディレクションするかが自分の腕の見せ所で。けったいな人間ばかりで、本当に面白い店だった。残ったスタッフたちには、「長いものに巻かれず、がんばれ!」と伝えたい。

―では、次のビジネスの構想は?

高下:今は完全に“空中戦”の時代。スタンスはいままでと変わらず、けれども従来型のビジネスを全否定しながら、今の時代に合わせた、どことも敵対しないECとリアル店舗を手掛けたい。ECは移動中や、くつろいでいるとき、寝る前など、気楽にスマホを見ながら簡単に買い物ができるものにしたい。最近、「卸したい店がない」と困っているブランドも多いと聞く。アパレルの比率は10%に満たないかもしれないが、“ファッション”を軸にしながら、メディア型のストアをつくりたい。リアル店舗にはそもそもレジがあってはダメ。「その場で販売しない」カッコイイ店にしたい。退店ラッシュで都心にも空き物件が増えているし、東京オリンピック・パラリンピック後にはさらに賃料も下がりそう。商業施設もネタ不足で新しいコンテンツには興味を持ってもらいやすい。良い場所に良い物件を探すにはチャンスだ。青山あたりに話題性の高い旗艦店をつくることができれば。面白い仲間やブランドやクリエイターと令和の時代に新しい挑戦をしたい。

松下久美:ファッション週刊紙「WWDジャパン」のデスク、シニアエディター、「日本繊維新聞」の小売り・流通記者として、20年以上にわたり、ファッション企業の経営や戦略などを取材・執筆。著書に「ユニクロ進化論」(ビジネス社)