「遅れちゃった」。
2001年9月11日の朝、ファッションジャーナリストの高久純子さんはそう思いながら、マンハッタンのウエスト69丁目にある自宅から、ウエスト34丁目の「コーチ(COACH)」のオフィスへと急いでいた。
高久さんが結婚を機にニューヨークへ移住したのは1999年12月。日本では編集者としてキャリアを重ねていたが、ニューヨークではファッションジャーナリストとして歩み始めたばかりだった。
それから2年足らずで遭遇した、9.11同時多発テロ。「自分は外国人だし、こんな状況ならもう日本に帰ろうかな」。そう考えたこともあったという。
あれから25年。あの日を境にニューヨークの街はどう変わり、ファッション業界は何を経験したのか。高久さんの記憶をたどりながら、9.11前後のニューヨークとファッション界を振り返る。
WWD:25年前の9.11の朝はどこにいましたか?
高久純子(以下、高久):「コーチ」のオフィスからは、ワールド・トレード・センターのツインタワーがよく見えたんです。「コーチ」は当時まだショーをやっていなくて、新作バッグを見せるブレックファストミーティングを開いていました。9月11日は、まさにその日でした。
私は向かっている途中でバスが突然止まり、「これ以上ダウンタウンには行けない」と突然言われたんです。地下鉄も止まっていると聞いて、そこから歩いてオフィスへ向かうことにしました。
着いてみると、会場がただならぬ雰囲気になっていて。みんなが窓の外を見ていたので、「どうしたの?」と聞いたら、「あれを見て」と。見ると、ツインタワーの一棟が燃えていました。もう、言葉にならなかったですね。
会場には「夫があそこで働いている」という「コーチ」の社員もいて、みんな何が起きているのか分からない状態でした。セキュリティの人がテレビを持ってきてニュースをつけましたが、その時点ではまだテロとは分かっておらず、飛行機が衝突した事故だという情報でした。
WWD:その後、どのように行動したんですか?
高久:すぐに、本能的に「ここにいちゃいけない」と思いました。夫とも連絡が取れなかったので、待ち合わせるとしたら自宅だと思って、アップタウンに戻ることにしました。
外に出たらたまたまタクシーが拾えて、運転手がラジオを聞きながら、「最初は小型機と言っていたけれど、かなり大きな旅客機らしい」「複数の飛行機が行方不明になっている」「次にどこが狙われるか分からないから、ランドマークから離れろと言われている」と教えてくれたんです。その頃には、「これは事故ではなく、計画的なものなんじゃないか」という空気になっていました。
夫のオフィスはエンパイア・ステート・ビルのすぐ近くだったので心配でしたが、電話はつながらず、家で待つしかありませんでした。自宅に着くと、日本にいる母から電話がかかってきて、「ニュースを見ているけど大丈夫?」と。むしろ日本の方が状況を把握していたくらいでした。その後、夫も歩いて帰ってきました。マンハッタンでは交通が止まり、ユニオンスクエアより南には行けない状態になっていて、その日の仕事もすべてキャンセルになりました。
WWD:翌日以降のファッションウイークはどうなったのでしょうか?
高久:もう、強制終了でした。当時の私は若手で、ストリートスナップの仕事もしていたので、一緒に仕事をしていたフォトグラファーと「とりあえずブライアントパークのテントまで行ってみようか」と話していたんです。当時は多くのショーがそこで行われていましたが、誰からも連絡が来なかったので、状況が分からなくて。
結局、私は「動かない方がいいかもしれない」と思って行かなかったんですが、フォトグラファーが見に行ったら、その日のうちにテントが献血センターになっていたそうです。それを聞いて、「翌日からショーがあるわけがないよね」と。もう誰かに言われなくても、みんな分かっていましたね。
ファッションウイークのために日本から来ていたバイヤーや関係者も大変でした。ニューヨークに着陸できず、アンカレッジに引き返して次の便を2、3日待ち、そのまま日本に戻った人もいれば、その後ニューヨークまで来た人もいました。逆に、すでにニューヨークに来ていて、帰れなくなった人もたくさんいた。そんな状況でした。
WWD:ニューヨークに来てすぐに遭遇した9.11。当時はどんな心境でしたか?
高久:私は意外と、ものすごい決心をしてアメリカに来たわけではなかったんです。当時32歳で、編集者としてのキャリアにも少し行き詰まりを感じていて、結婚を機に、ある意味「渡りに船」という感じでニューヨークに来ました。
だから9.11が起きた時は、「こんなことが続くなら、日本に帰ろうかな」と思いました。腹をくくって来たわけではなかったし、「私はアメリカ人でもないのに、どうしてこんなところで標的にならなきゃいけないんだろう」という気持ちも少しあった。日本にいる親からも、「そんな危ないところにいないで帰ってきたら」と言われました。
「1シーズン飛ばすなんてありえない」
WWD:一方で、その後のニューヨークは比較的早く日常を取り戻していった印象があります。街やファッション業界の変化をどう見ていましたか?
高久:そうなんです。ニューヨークってやっぱりすごく強くて。ファッション業界もそうだったと思いますが、「ストロングでいこう」というような結束が生まれていったんですよね。
それから2カ月もたたない11月には、ニューヨークシティマラソンも開催されました。中止になるんじゃないかと思っていたけれど、開催した。それぐらいから、「いつまでも落ち込んでいてもしょうがないよね」という空気になっていった気がします。
ファッション業界も同じで、翌年2月にはもうファッションウイークが再開されていました。「1シーズン飛ばすなんてありえない。僕たちはやるんだ」という感じでした。立ち上がるのは本当に早かったと思います。
WWD:一方で、街にはまだ9.11の傷跡が残っていたと思います。実際に現場の近くにも行かれたんですよね?
高久:ある時から、9.11の映像が人々のトラウマになるという理由で、テレビでは繰り返し流されなくなっていったんです。それで、実際に今どうなっているのか分からなくなって、1週間後くらいに夫と現場の近くまで見に行きました。もちろんグラウンドゼロには近づけませんでしたが、チェンバース・ストリートあたりまでは行けました。
街は水浸しで、書類や紙が散乱していて。風向きによっては、なんとも言えない匂いもしていました。木が焼ける匂いとは違う、今まで嗅いだことのないような匂いでした。
WWD:9.11の前後で、ニューヨークのファッションシーンにも変化を感じましたか?
高久:そうですね。以前のように、ただ素敵だったり、ふわっと美しいものだけではなくなっていったように思います。ファッションにも、もっと何かを主張することが求められるようになった。「もっと連帯しよう」とか、「差別をしない」とか、そういうメッセージが少しずつ強くなっていった気がします。
私がニューヨークに来た頃は、ランウエイに出るモデルも圧倒的に白人が多くて、そこに黒人モデルが1人、2人入るような時代でした。それが徐々にアジア人を含め、さまざまな人種やバックグラウンドのモデルが登場するようになって、ファッションそのものが多様になっていった。
もちろん、それが9.11をきっかけに起きたのかは分かりません。でも、2000年代に入ってから、ファッションの価値観そのものが新しい時代に入っていったようには感じます。「こんなことがあったから、こんなふうにも考えられるようになったよね」と前に進んでいく。そういう強さは、ニューヨークにもファッションにもあると思います。