ファッション

「べネチア・ビエンナーレ」日本館代表・荒川ナッシュ医、208体の赤ちゃん人形に託した「未来」とは

PROFILE: 荒川ナッシュ医/クィア・パフォーマンスアーティスト

PROFILE: 1977年福島県生まれ。ロサンゼルスを拠点に活動する日系アメリカ人のクィア・パフォーマンスアーティスト。多様なコラボレーションを通して、作者性や主体性の境界を問い直す作品を制作する。現在はロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザイン大学院アートプログラム教授を務める。近年はハウス・デア・クンスト(2025年)、国立新美術館、CHAT紡織文化芸術舘、東京都写真美術館(いずれも24年)、テート・モダン(21年)、ホノルル・ビエンナーレ(19年)など国内外で作品を発表している。PHOTO:RICARDO NAGAOKA

5月9日から11月22日にかけて、イタリア・べネチアにて現代美術の国際展覧会「ベネチア・ビエンナーレ(La Biennale di Venezia)」が開催されている。1895年に発足された本展は、世界で最も歴史ある現代美術の祭典として知られ、各国を代表するアーティストが参加する国別パビリオンと総合キュレーターが手掛ける企画展の二本柱で構成されている。

第61回を迎える今回は「In Minor Keys(短調の響きの中で)」をテーマに、世界各国から110組のアーティストが参加。日本館(主催:国際交流基金)の代表を務めたのは荒川ナッシュ医だ。98年に単身で渡米し、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツやバード・カレッジで学んだ後、2019年にアメリカ国籍を取得。現在はロサンゼルスを拠点に活動し、世界各地で展覧会を開催している。ディアスポラのクィア・アーティストとして知られる荒川ナッシュは作品に観客を巻き込む参加型の展示を得意とし、高い評価を得ている。

今回の日本館では、自身が双子の親となった経験から着想を得て、208体の赤ちゃん人形を展示。観客がおむつ替えを体験できる参加型の展示は、開幕直後からインスタグラムをはじめとするソーシャルメディアで大きな話題を呼んだ。

本稿では、共同キュレーターの高橋瑞木と堀川理沙、著作家の石井ゆかり、テキスタイルデザインスタジオのNUNO、アーティストの崔在銀(チェ・ジェウン)らとともに制作を進めた荒川ナッシュ医へのインタビューを通して、日本館に込めた思いやメッセージをひも解いていく。

分断の時代に、アートがつくる国境を超えた対話と連帯

ーー「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」は、ご自身の育児経験から着想を得たとのことですが、具体的にはどんな瞬間にアイデアがひらめいたのでしょうか?

荒川ナッシュ医(以下、荒川ナッシュ):日本館の代表アーティストの最終選考に残っていると知らせを受けたのは、双子の赤ちゃんが生後3カ月のときでした。ちょうど手伝いに来てくれていた母親が帰るタイミングで、育児休暇も終わるという過渡期だったんです。そんな状況の中で、クィアである自分の子育て経験をテーマに作品を発表しようと考えました。育児は身体的な労働でもあります。赤ちゃんを抱き上げるときはスクワットをするような動作になりますし、持ち方によっては腰を痛めてしまうこともあります。そうした育児に伴う身体的な影響やケアの実践を、作品の中に取り入れたいと思いました。

それから、赤ちゃんクラブ(育児のためのコミュニティー)での経験も大きな着想になっています。英語で「ジェンダー・アサインメント」といいますが、男の子は「○○君」、洋服は青、女の子は「○○ちゃん」、洋服はピンクというように、赤ちゃんのころから性別が当たり前のように割り当てられていきます。私とパートナーはそうした価値観に少し懐疑的で、できるだけヘテロノーマティブ(異性愛規範)な価値観や固定的な性別の割り当てを減らしたいと思っています。そうした自分たちなりの子育ての方法も、今回の作品に影響しています。

ーー自分の思い通りにならない育児という経験を通じて、作品に何か変化や新しい発見がありましたか?

荒川ナッシュ:育児経験はまだ18カ月ほどなので長いわけではありませんが、それでも自分の中には大きな変化があります。ただ、それだけが今回の作品に対する答えというわけではありません。会場には作品を見るだけの人もいれば、人形のおむつ替えに参加する人もいます。子どもがいる人もいれば、いない人もいます。それぞれが「子ども」という存在に対して何らかの考えや思いを持っていると思います。

作品と対峙したときに、その人の中からどんな感情や感覚が出てくるのかは私にはコントロールできません。むしろ、私自身の経験以上のことを、それぞれの人生や立場の中で受け取っているように感じています。実際に赤ちゃんの人形を抱っこしながら、自分の気持ちについて考えたり、誰かと話したりする人もいる。そうやって何かを感じたり、考えたり、会話したりするきっかけになっているとしたら、ある意味では作品がうまく機能しているということなのかもしれません。そうした反応が実際に生まれていることに、私自身少し驚いています。

ーー観客が赤ちゃん人形のおむつを替えるという参加型のパフォーマンスですが、57体の人形にはそれぞれ誕生日が割り当てられ、QRコードを読み取ることで詩を受け取ることができる仕組みですよね?

荒川ナッシュ:QRコードを読み取る行為は、パフォーマンスの最終的なプロセスになります。赤ちゃんの人形は約5.5キロあり、実際の赤ちゃんに近い重さになっています。その人形を抱きながら日本館の庭や建物の中を散策してもらうのですが、人形でありながら不思議とリアルに感じられ、自然と感情移入してしまうんですよね。人形はサングラスをかけていますが、それでも話しかける人がいたり、肩車をする人がいたり、さまざまな反応が見られるんです。いわゆるエンパシー(共感)が生まれているのだと思います。そしてQRコードから詩を読むころには、自分と人形との境界線が少し曖昧になっていて、人形に対する共感が強くなっています。その状態で詩や歴史的な出来事に触れることで、観客自身の記憶や経験と結び付いていくんだと思います。

ーー実際にそういったフィードバックはありましたか?

荒川ナッシュ:そうですね。私が想像していた以上に、皆さん本当に大事そうに人形を抱っこしてくれます。作品の着想源の一つには、川越にある五百羅漢や日本各地の千体地蔵のような存在があります。最初はただの像や人形として見ていても、関わり続けることで少しずつ感情移入が生まれていく。その過程で、人それぞれの記憶や経験、思いが重なり合い、何らかの関係性が生まれていくのでしょう。

「子どもは親を選べない」
57体の赤ちゃん人形に込めた倫理

ーーまるで自分だけに託されたメッセージや使命を受け取るような特別な感覚がありますが、一方で、それらの詩にはアジア太平洋戦争中の出来事やクィアコミュニティーの歴史などが織り込まれており、決して明るい内容ではないですよね。

荒川ナッシュ:かわいらしさやユーモアはこの作品の大切な要素ですが、その根底にはシリアスなテーマや重みのある問いがあります。私自身、これから子育てをしていく中で、歴史をどう伝えるのか、クィアな家族としての成り立ちやマイノリティーとしての経験をどのように子どもに伝えていくのか、常に考えています。生殖補助医療や、出自を知る権利などをどう尊重するのかといったことも含めて、作品の背景にはそうした問題意識があります。ただ、それを最初から重いテーマとして提示するのではなく、まずは人形のかわいらしさやユーモアによって多くの人に興味を持ってもらい、その先でアジア太平洋戦争の記憶やクィアコミュニティーの歴史といったテーマに触れてもらえたらと考えました。

「ベネチア・ビエンナーレ」は政治性の強い場ですが、政治的なメッセージを直接的に伝えるのではなく、できるだけ身体的な経験で感じてもらいたかったんです。何かを押し付けるのではなく、それぞれが自分なりに受け止められる余白を残したかった。それが今回の作品の方法だったと思います。

ーー日付はどのように選びましたか?

荒川ナッシュ:57の歴史的な出来事は、自分の双子に伝えたい日付を選んでいます。いわゆるマイナーヒストリーですが、それをアーカイブし、伝えていくことはとても重要だと思っています。リプロダクティブ・ライツに関わる日付も入っています。例えば、アメリカで議論されている中絶の権利。私は代理懐胎で双子を授かりましたが、日本では今もさまざまな議論があります。だからこそ、まず知ること、調べることが大事だと思っています。ある意味で、マイナーヒストリーの可視化ですね。

ーー石井ゆかりさんの言葉で詩にした経緯を教えてください。

荒川ナッシュ:以前から石井ゆかりさんの書籍を読んでいました。「星の相談室」のように、さまざまな悩みに答える文章がとてもオープンで優しく、独特の日本語表現にも引かれていました。今回の作品は、代理懐胎や日本の戦争の歴史など、とてもセンシティブなテーマを抱えています。だからこそ、それらを扱うためには繊細さや丁寧さが必要だと感じていました。石井さんとは面識がなかったのですが、ぜひ力をお借りしたいと思ったんです。

占いには、おまじないやマジック、そして詩や想像力につながる部分があると思います。総合キュレーターのコヨ・クオ(Koyo Kouoh)さんも、合理性の中では見過ごされがちなそうした領域をとても大切にしていました。だから石井さんに参加していただけることになったとき、この作品の核となる部分が形になったような感覚がありましたね。

また今回は、1995年に日本館へ参加した韓国人アーティストの崔在銀さんにも作品を提供していただきました。さまざまな背景や視点を持つアーティストが関わることで、展示を多角的に見ることができる構造を意識していました。

ーーテキスタイルデザインスタジオのNUNOが手掛けた人形の洋服もカラフルで印象的でした。

荒川ナッシュ:須藤玲子さんが主宰するNUNOとのコラボレーション制作では、デザインは配色違いを含めると180パターン以上あり、AIを活用しました。今回は詩が重要な要素になっていますが、詩そのものには視覚的な形がありません。だからこそ、AIによって詩からそれぞれのデザインを生成し、つながりを持たせました。

また、日本館の内部では8チャンネルのサウンド作品が流れています。コラボレーターのサージ・チェレプニン(Sergei Tcherepnin)が制作したもので、私の双子の赤ちゃんの声をサンプリングして使用しています。日本館は大理石の床で近代建築特有の硬質な空間ですが、そこに赤ちゃんの声が加わることで空間全体がだいぶ柔らかく感じます。抱いている人形と実際の声がどこかで結びつくような、不思議な臨場感も生まれます。

人形は17種類くらいの肌の色と5種類の顔立ちがありますが、観客が人形を選ぶことはできません。これは子どもが親を選べないのと同じ意味を持ち、あえてそうすることで、作品のテーマとも関わる倫理的なリアリティーを感じられると思いました。

ディアスポラとして日本館に立つということ

ーー日本館の代表として選出されたとき、率直にどう感じましたか?また、「国籍を超えたディアスポラ」である荒川ナッシュさんだからこそ、今の日本館で表現すべきだと思ったことは何ですか?

荒川ナッシュ:私は実用的な理由から日本国籍を手放しましたが、近年の日本館では、「日本国籍を持つ人だけが日本館に関わるべきだ」という考え方を見直そうという流れがあったと聞いています。また、今年は韓国館とのコラボレーションも実現しました。日本館と韓国館が協働するのは「べネチア・ビエンナーレ」史上初めてのことだと聞いています。国境を超えたつながりや対話を模索する流れの中で、自分も少しでも貢献できたのであればうれしいです。

一方で、韓国館とのコラボレーションやクィア家族のあり方を可視化することには大きな責任も感じていました。だからこそ、作品を通じてしっかり伝えたいと思いました。今世界ではナショナリズムが再び強まっています。そうした状況の中で、私にとって赤ちゃんは国境や属性を超える存在として重要なモチーフ。未来について考えるきっかけとして、赤ちゃんという存在には普遍的な力があるのではないかと思っています。

ーーナショナリズムが台頭する今、次の時代を生きる子どもたちのためにアートを通してどのような「連帯」を作れるとお考えですか?

荒川ナッシュ:私が作品を通して伝えたいことが、そのまま観客に伝わるとは限りません。ただ、アートには映画やエンターテインメントの物語性とは少し異なる、独自の連帯感を生み出す力があると思っています。今回の作品では、観客は受け身で鑑賞するのではなく、参加型のプロセスの中で、自分自身のためにパフォーマンスを行う存在になります。赤ちゃん人形を抱くという行為を通して、それぞれが自分の経験や感情と向き合うんです。多様な背景を持つ人たちが同じ空間で作品に関わることで、ある連帯感が生まれることもある。一方で、人形を抱っこしないという選択自体も作品の一部として機能します。そうした意味で、この作品は私が想像していた以上にうまく成立したのではないかと感じています。

波乱含みの開幕と、コヨ・クオが残したビジョン

アフリカ出身の女性として初めて総合キュレーターに選出されたコヨ・クオは、大きな期待と注目を集めていた。しかし、開幕を前に昨年5月に急逝。「ベネチア・ビエンナーレ」財団は彼女の構想を尊重し、そのビジョンを受け継ぐ形で展覧会を開催した。一方で、ロシアやイスラエルの国別パビリオンの参加をめぐって審査員がボイコットを表明するなど、波乱含みの幕開けとなった。世界各地で分断や対立が深まる中、国境やアイデンティティーの枠組みを超え、人と人とのつながりを模索する荒川ナッシュ医。赤ちゃんを抱くという行為を通じて、未来に向けた連帯のあり方を問いかけている。

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