
東京を拠点に活動するアーティストユニット・TUHEADS(トゥーヘッズ)は、生成AIを用いたイメージ制作を通じて、「見ること・記憶することとは何か」を主題とした作品を発表してきた。ギャラリー ・LOWWにて開催された2024年の展示「PI PI PI PICNIC」では、AIが生成したイメージにあらわれる違和感や歪み、ユーモアを通して、人間の認知の揺らぎを可視化。続く25年の展示「波が戻らない日、私たちは何を“見た“と信じるのか。」では、ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)の絵画を起点に、AIが再構成する風景と、人間の記憶や真実との関係を問いかけた。TUHEADSの関心は、AIによるアウトプットそのものではなく、AIの学習過程ならびに生成されたイメージと現実の間に生じるズレにある。彼らにとっての生成AIは制作ツールであると同時に、依頼者とは異なる思考パターンを以て応答する存在でもある。AIが生み出すエラーやノイズをすくい上げ、新たな思考の入口として可視化することで、鑑賞者である私たち自身の身体的感覚や認知のあり方を浮かび上がらせる。
20世紀半ば、フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)は、人間の身体を「世界と接続する主体」として捉えた。私たちは頭の中だけで物事を理解しているのではなく、見る、触れる、動くといった身体の感覚を通して世界と関係している。服を着たときの重さや質感、街を歩くときの視線や距離感のように、身体的な感覚は私たちの思考や判断に確実に影響を与えている。しかし、インターネットやSNSが生活の中心となった現代では、イメージは瞬時に共有され、身体を介さずに消費されていく。一方で、現代アートやカルチャーの領域では「身体性」にフォーカスする動きが続いている。これはデータへと置き換えることのできない“実感“を取り戻そうとする試みともいえるだろう。こうした文脈の中で登場した生成AIは、“身体を持たない存在“がイメージや価値を生み出すという新たな局面を切り開いた。しかし集積されたビッグデータからは、個々人の記憶や身体的知覚がこぼれ落ちている。AIが作り出す無数のイメージを前に、身体を持つ私たち人間は、どこで立ち止まり、最終的な意味の判断と責任を引き受けるのだろうか。TUHEADSの2人に話を聞いた。
PROFILE: TUHEADS/アーティスト

身体経験に基づく創造性にAIという視覚化装置を接続する

――TUHEADS 結成の背景や各々の役割などについて教えてください。
阿部雄也(以下、雄也):これまでアーティストとしての活動はしていなかったのですが、無料の画像生成AIツールを軽い気持ちで使い始めてみたら面白い画像が作れたことがきっかけで創作を始めました。そのうち気に入った画像をプリントしたTシャツを着て「ロウ(LOWW)」を訪れたところ、ギャラリストの濱崎(幸友)さんが目を留めてくれて展示に繋がったんです。1枚のTシャツが出発点ですね。
阿部早紀(以下、早紀):まだその時は明確にユニットとして活動するイメージもありませんでしたが、ひとまず“2人の頭で考える“ので「TUHEADS」という名前にしてスタートしました。
特に役割分担はなく、2人ともお互いの思考をありのままに受け入れています。アート制作において自己や主体を一旦取り払うことで一体どこにたどり着くのか、そこに興味を感じています。
雄也:創作活動としてはスマートフォンでプロンプトを作るぐらいなので、これまでの制作とは全く異なる感じがしました。簡単に面白いものができてしまうことに驚きましたね。当時は23年の終わり頃だったので、生成AIの精度はまだ高くないし、ユーザーもそこまで多くなかったと思います。「ロウ」での展示会のスケジュールが決まってから開催までの期間で作品制作に取り組みました。
――アーティスト活動は偶発的なスタートだったんですね。現在の生成AIを用いた創作以外にも、2人は何かしらの表現活動に携わってこられたのですか?
早紀:我々は普段印刷会社で仕事をしています。アートブックやクリエイティブ系専門の会社ではなく、広告の印刷がメインの会社で、印刷物を手作業でカットして届ける仕事です。
雄也:印刷会社のクライアントには企業も個人もいて、日々様々なイメージを見ているので、そこからインスピレーションを得ている部分もある気がしますね。
早紀:ベースの紙は全部同じものなのに、そこにインクでイメージが乗るとハッとすることがあります。医師の学会で使う印刷物には手術の写真もあったりするので。ほかにも飲食店のメニューなど、人々に様々な体験を与えるものを扱っているので、同じ紙にインクが乗るだけでここまで違いが生まれるのかと驚きます。
私は工芸高校で機械を使用して金属をデザインする手法を学び、大学ではイラストレーションを専攻していました
雄也は以前ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズ校(Central Saint Martins、以下、セントマーチンズ)でウィメンズウェアを学んでいて、“デザイナーが服を作るのではない“というコンセプトの「シックスケーススタディ」という作品でプレスショーに選ばれました。
雄也:「まず、アイテムの制作にかかる時間を計算して、その半分の時間ではどんな服を制作できるのか。また、全くスーツを作ったことない人に作らせるとどんなスーツができるのか」というコンセプトです。
セント・マーチンズはコンセプト重視の教育で、放任主義というか、基本何も教えてくれないんです。先生たちはテクニカルなことよりも、生徒の持っているアイデアをどれだけ素晴らしい形にするかを意識している。生徒が関心を示している事象を作品に落とし込む際、どれだけリサーチをしているかが重要なんです。不足部分は情報を加えて、ブラッシュアップしていく。
ハイファッションの世界では、デザイナーの仕事は縫製することではなく、テクニックの部分は職人に任せるという考え方があるように思います。セントマーチンズの先生方はアーカイブ等の膨大な知識を持っていて、それこそAIのように情報を提供してくれました。
美術史とテクノロジーが交差する文脈の中で「新しい視点」を探る
――TUHEADSとしての活動は、ファッションや工芸・印刷業・イラストレーションなど専門性の高いバックグラウンドを持つ2人が、手作業を通じた身体的体験と、AIという新たな視覚化装置との接続を試みているように思います。特に「見る」「記憶」「想像」「知覚」といったテーマを探求する背景について教えてください。
雄也:イメージを扱うアートにとって、根本的なテーマだと感じるからです。
早紀:エドゥアール・マネ(Edouard Manet)やギュスターヴ・クールベに注目したのは、産業化と都市化が急速に進んでいた19世紀後半において、彼らの“現実を追求する“という行為が斬新だったということを改めて再発見したからです。
雄也:現代では美術館でクールベやマネの作品を見て素晴らしいと感じる人が多いと思いますが、当時の美術界のアカデミックな風潮の中では前衛的な作家と捉えられ、多くの批判に晒されていました。
早紀:当時の新しさは、現代では当たり前になってしまっている。「今、私たちにできる“新しさ“とは何か?」という問いが活動の原点にあります。生成AIのアウトプットに対して、我々自身も「何だこれは?」と思いながら作品を制作しているので、展示会で鑑賞者の反応を観察することが重要だと思っています。
雄也:作品制作にあたっては美術史や文脈を大事にしていて、そこに現代特有の現象やテクノロジーを組み合わせるとどうなるのか試しています。僕らが使い始めた当初と比べてAIは一般化されてきているので、新しさという視点での特別感は薄れてしまった印象があります。
パソコンが普及したように、例えば100年後の未来に現在を振り返った時、23年頃に活動していたアーティストはAIを使ってこういう表現を目指していたんだ、と感じてもらえるかもしれない。そのようなアプローチを心がけています。
――TUHEADSにとって、AIとはどのような位置付けなのでしょうか?
雄也:かつては教会や有力者が画家に作品をオーダーし、画家はその依頼に基づいて絵を描いていました。対してAIを使っての作品制作においては、プロンプトの入力を通して我々自身がオーダーを出す側にもなっている。そう考えると、僕らは作家なのか、依頼者なのか、立場が曖昧になってきます。
そもそもアートの世界では、制作プロセスの全てを作家1人で行うわけではない。例えば大きな彫刻だと、アシスタントや業者が制作に関わることもありますから。そういう観点からもAIによってアート制作の可能性が広がった印象があります。
早紀:AIを肯定も否定もしていません。みんながスマホやPCを当たり前に使っている感覚と同じ捉え方です。
――AIから生じるエラーやノイズを作品の中でどのように扱っていますか?
雄也:テーマやコンセプトを軸に創作しているので、基本的にAIがアウトプットする結果に対して我々がインサイトを得るという制作スタイルを採っています。
マネの「草上の昼食」をテーマにして作品を制作した時、当時のAIではテキストの指示で画像を作ることはできても、複雑なプロンプトは反映できなかったんです。例えば画像中央に据えるものを指示することはできるんですが、マネの絵画のように中央に複数の人物やオブジェクトを描いたり、複数種類の木や湖を描いたりすることは難しい。どうすればそういう複雑な情報を作品に反映できるのかを考えていました。「草上の昼食」に描かれている人物や風景についてネットで調べると、人物像やポージングの意味がテキストで残されているので、それらをプロンプトに含めてオブジェクトごとに生成してみたんです。そうすると全く違うものが出来上がるんですね。元絵の人物とは造形もポーズも異なる。
この違いが面白かったので、絵画の各オブジェクトを個別に画像生成していき、最終的に原画と同じ構図になるよう1つにまとめました。さらにその画像を参照し、別バリエーションが提示される機能を使って新たな画像を生成してみたんです。すると複雑な構図でもうまく表現することができました。元の絵に車は描かれていないのですが、AIが何らかの要素を“車”と認識したのか、唐突に画面上に車が出現したり。通常だったらバグと考えるところを面白い現象として捉えピックアップしながら制作を進めました。
ビッグデータから生成された“どこでもない風景“が象徴する、AI時代における現実の不確かさ
――AIに対して人間が指示することで生じる振れ幅や予期せぬ創造は、ある意味で私たちの言語化不可能なバイアスや、情報化の過程でこぼれ落ちた不可視の要素を浮き彫りにするものなのかもしれませんね。「PI PI PI PICNIC」 (2024)に出展された作品はお2人の考察を表象化し、鑑賞者に気づきを与えるものでした。続いて25年に開催された展示「波が戻らない日、私たちは何を“見た“と信じるのか。」で表現したかったことは?
雄也:クールベの絵画をテーマとして、AIを使って彼の絵画を写真のように変換するだけの内容なんですが、意外と面白さがあった。我々はクールベの絵画を通して、“描かれた波の景色“を見る。しかし、その景色は当時の彼の眼前に存在したはず。その景色をAIによって再現してみたいという動機が制作背景にあります。
早紀:作品をAIで完全に再現することが目的ではなく、クールベが見ていた当時の海は果たしてどんな風景だったのかを表現したかったんです。
雄也:クールベが描いたのはノルマンディから臨んだイギリス海峡ですが、AIは集積されたビッグデータをもとに海を描き出すため、どこの海を参照しているのかわからない。世界中の様々な要素がデータとして集まってきて、統計的・平均的な情報を映し出す感覚が現代的だと思ったんですよね。
早紀:作品には雪山に鹿が描かれているのですが、AIでこの雪景色を生成したところ、画面上から鹿が消えてしまうという事象がありました。
――AIに指示と生成を繰り返すほど、視覚的なリアリティとは裏腹に不確実性が増していき、次第に意味の輪郭を失っていく。示唆的な現象ですね。
雄也:SNS等で最新のAIツールで生成した画像を見かけると、一見AIだとわからないぐらいのレベルになってきている。おそらく26年以降は、インターネットにあふれる情報がリアルなものなのか、AIが生成して作り上げたものなのか、一層わからなくなる。そうなると人々は何を信じるのか。そういう時代がもうすぐ来る気がします。我々が制作に使っていたのは最新のAIツールではなく、OpenAIが提供していた「DALL·E 2」というものなんですが、突然提供が終了してしまいました。
早紀:「DALL·E 2」は私達が好みの、水彩っぽい、絶妙なテクスチャーで生成してくれるので好きだったんですが。
――今後AIが進化を続ける中で、どういった視覚体験や表現を目指していきたいですか?
雄也:これまでアウトプットをAIの画像生成に任せっきりにしていたので、今後の制作方法を見直している最中なんです。
早紀:AIによる画像生成が急速に一般化してしまった今、“作品“って何だろうと再考しています。これまでの作品は“認知“にフォーカスしていましたが、今後はAIとの付き合い方を模索しながら、身体性を確保する方法としてペインティングとのミックスなども考えています。
雄也:もしかしたら、もっと原初的なところに戻っていくのかもしれない。AIと人間の最も大きな違いは、身体を持っているか否かだと思います。