ファッション

三重によみがえる幻の“擬革紙” ファッションデザイナー高谷健太と巡る“ときめき、ニッポン。”第9回

 山本寛斎事務所のクリエイティブ・ディレクター高谷健太とともに、日本全国の伝統文化や産地を巡る連載“ときめき、ニッポン。”。9回目となる今回は、三重県多気郡明和町の“擬革紙(ぎかくし)”について。

 みなさんは擬革紙をご存じだろうか。名前の通り、表面にシワや凹凸、色をつけて、革のような風合いに加工した紙のことだ。江戸時代初期に、当時貴重だった革を真似して伊勢の商人・堀木忠次郎によって開発されたのが起源だと言われている。1900年(明治33年)にはパリ万国博覧会で金賞を受賞するなど、ヨーロッパでも高い評価を得ている。今では三重県の指定伝統工芸品にも名を連ね、“革に似せた紙”という名前がもったいなく感じるほど、世界に誇る素材である。

 そんな歴史ある擬革紙だが、実は昭和初期に生産を一度終了していた。江戸時代が終わり明治時代に入ると、革が庶民にも普及するようになり、少しずつ擬革紙の需要がなくなっていったという。

 その擬革紙を復活させるべく、15年前に活動を始めたのが堀木茂さんだ。堀木さんは、先述した伊勢擬革紙の生みの親、堀木忠次郎の末裔で、伝統工芸技術の復興を目指して2009年に「参宮ブランド『擬革紙』の会」を立ち上げた。同素材を自ら生産し、プロダクトとして販売するほか、江戸時代に使われていた擬革紙の煙草入れや資料を収蔵する「まちかど博物館(三忠)」の館長も務めている。ここでは、現存する擬革紙を見学しながら、その歴史と魅力を聞く。

高谷健太(以下、高谷):伊勢で擬革紙が生まれた背景を教えてください。

堀木茂(以下、堀木):日本は古来、仏教思想の影響によって肉食がタブーとされていました。実は密かに食べていたともいわれますが、基本的には肉を食べる習慣はなかった。そのため、革を調達する技術も海外に比べると発展途上でした。そんな中、1600年頃にヨーロッパから革がもたらされると、非常に希少な素材として人気を博します。裕福な商人や大名たちがこぞって革製の袋を持つようになり、庶民も革に対して強い憧れを持つようになったのです。しかし、あまりに高価なため、庶民には手が出せない。そこで、革に似せた素材として、擬革紙が生み出されたのです。

高谷:なぜ伊勢で生まれたのでしょうか?

堀木:参宮街道(伊勢街道)は古くから旅人が多く、道中には雨具のカッパを売る店がたくさんありました。当時のカッパというと、ワラのようなものを想像するかもしれませんが、実は和紙に油を染み込ませた“油紙”で作るカッパが一般的でした。私の先祖も油紙の商人であり、その機能性の高さと、使い込むと革に近い風合いに変化することにヒントを得て、擬革紙を生み出したのです。

高谷:油紙に着想したのですか!すごいアイデアの転換ですね。擬革紙は当初、どんな用途で使われていたのですか?

堀木:“きざみタバコ”の収納袋として使用されていました。当時の日本は、西洋からキセルの文化が持ち込まれたばかりで、老若男女問わず、多くの人が嗜好品として楽しみました。初めは、キセルに入れるきざみタバコを紙や桐箱に入れて持ち歩いていましたが、空気中の水分によってすぐにしけってしまうため、水に強い素材への変更が求められました。そこで、擬革紙が使われるようになったのです。このアイデアがヒットし、一時は参拝客のほとんどが擬革紙の煙草入れを購入したと言われるくらい人気を博しました。これを機に、擬革紙の技術は江戸や姫路、仙台など日本各地に広まっていきます。

高谷:明治になると、伊勢の擬革紙はどのような変遷をたどるのでしょうか?

堀木:湿気に強く耐久性もあることから、壁紙の素材として欧米での注目が高まります。日本から盛んに輸出されたこともあり、1900年のパリ万国博覧会では金賞も受賞したほどです。この技術を参考にして、イタリアなどでも擬革紙の技術が発展したとも聞いています。しかしその後は、キセルから葉巻き、そして紙巻きタバコへと愛煙家の趣味も変化するにつれ、煙草入れとしての需要がなくなっていくのです。さらに、日本でも革の加工技術が高まり、その他の新素材も流通したことで、擬革紙の生産量はどんどん減少し、やがて生産されなくなるのです。

高谷:そこから長い年月が経ち、堀木さんはなぜ擬革紙を復活させようと思ったのですか?

堀木:自宅の蔵に擬革紙を製造する道具が残っていたからです。自分の先祖が技術を生み出し、生業にした擬革紙を、もう一度作ってみたいと考えました。商売にはつながらないかもしれませんが、挑戦してみる価値があると、2009年に「参宮ブランド『擬革紙』の会」を設立し、復興活動を始めました。

高谷:当時の製造方法は記録されていたのでしょうか?

堀木:いえ、文書としての記録は非常に少なく、明確には残されていませんでした。古い資料を漁り、現存する擬革紙を見ながら、着色方法やシワのつけ方などを自ら読み解いていったのです。最初は本当に苦労しましたが、“ちりめん和紙”という和紙の作り方に似ていることが分かり、生産を成功させました。ちりめん和紙とは、型紙で和紙をはさみ込み、巻きつけて押さえつける独特の手法で製造するもの。それに、染料や顔料による着色や、表面加工を組み合わせて、擬革紙の技術を完成させました。

高谷:地道な工程の積み重ねで実現するのですね。1カ月にどのくらい生産できるのですか?

堀木:A2サイズを50枚程度でしょうか。とても手間暇がかかるので、大量生産はできません。それでも、この素材を軸に、スマートフォンのケースといった現代的な製品開発を積極的に行っています。16年には伊勢市のおかげ横丁に常設売り場を設けて、18年にはウェブサイトでの販売も開始しました。今作っている擬革紙は、やっと明治時代に作られたものに近づけたかな?という状態です。さらに改良を重ね、天然素材を使った新しい染色方法も研究しています。また、出来上がりのサイズが500×400ミリメートルと小さいので、もっと大きなサイズが作れるかも課題です。正直なところ、今もまだ擬革紙の研究に没頭していて、商品開発にまで回せるパワーがない。そのため、擬革紙を使ってこんな商品を作ってみたい!というアイデアのある方に出会えたらうれしいです。

高谷:僕は今、擬革紙のカードケースを愛用しています。とても軽く、使い込むほどにツヤが生まれて、柔らかくなっていくのです。和紙は無数の繊維の結合によってできていて、それをさらに圧縮させているので丈夫なのは当然なのですが、実際に使ってその耐久性に驚きました。

堀木:油を塗って手入れをするとさらに長持ちしますよ。ハンドクリームでも構いません。技術を復活させたとはいえ、まだ活動は始まったばかり。これからも、少しでも多くの人に擬革紙を手に取ってもらえる機会が生まれるように尽力します。


 ものづくりの根幹には常に自然の恩恵があり、その背景には人々の宗教観、当時の法や制約、地理的な要因もある。それらによって、独自の技術や文化として開花し、堀木さんのようにそれらを絶やさぬようにと奮闘する人々によって、脈々と受け継がれているのだ。

 今、大量生産・大量消費の時代から、SDGsの視点でものづくりが見直され、社会の在り方も多様化している。その中で僕自身は、どんなものづくりが正解なのか、まだはっきりとした答えは持っていない。しかし、このような過渡期において、いろんな価値観から生じる摩擦や衝突こそが思考の源泉であり、クリエイションや発明の原動力だと思う。新しい何かを生み出そうとした時、それぞれの地域に眠る文化には、問題を本質的に捉えるヒントがあるのかもしれない。

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