ファッション

時流を織り交ぜて輝く“伊勢木綿” ファッションデザイナー高谷健太と巡る“ときめき、ニッポン。”第5回

 前回の“伊勢和紙”に続いて、今回は江戸中期に誕生した“伊勢木綿”を紹介する。その前に、同じ江戸中期に生まれたと言われる “伊勢音頭”について触れてみたい。

 伊勢音頭はお伊勢参りの道中唄で、東海地方の人にとっては「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」のフレーズでなじみ深いものだ。諸説あるが、伊勢音頭の起源は享保(1716年〜1736年)の頃に作られた「かわさき音頭(伊勢市河崎)」が源流で、その後、伊勢古市の遊郭で唄い踊られたと言われている。お伊勢参りの“荷物にならないお土産”として爆発的に全国を伝播し、日本三大盆踊り“郡上おどり”(岐阜県郡上市八幡町)の有名曲「かわさき」のルーツともされている。

 昨年の11月、この伊勢音頭を見る機会があった。道中唄ということで庶民に向けたものという先入観があったのだが、歴史に裏打ちされた威厳と誇り、そして何よりも品格を感じた。舞に合わせて三味線を弾き、唄を唄う奏者“地方(じかた)”が奏でる唄と三味線とお囃子は、終始鳥肌ものだった。また、伊勢古市の遊郭「備前屋」名物だった“伊勢音頭の総踊り”を描いた歌川貞秀の浮世絵「いせおんど 桜襖(さくらふすま)」を目にした瞬間、そのスケールの大きさに圧倒され、「これこそが全国に波及した理由だったのか」と実感したものだ。

 そんな伊勢音頭を思い浮かべながら、伊勢神宮の参道口にある宇治橋から五十鈴川(いすずがわ)に沿って続く通り“おはらい町”を歩くと、きれいな配色で構成された格子や縞模様の着物用の反物をはじめ、ハンカチ、バッグといった先染織物の製品と出合う。これが“伊勢木綿”という織物で、人の優しさや温もりを感じる素材感を持ち、伊勢神宮の参拝土産としても重宝されていた。現在、この伊勢木綿を織ることができるのは、津市にある織物会社、臼井織布だけである。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ…」という伊勢音頭の歌い出しは、こうしたものづくりと商流のあり様を歌ったのかと思い起こされる。

 ここでは、250年以上に渡って伊勢木綿を織り続けてきた臼井織布の主人、臼井成生さんに話を聞いた。温もりを感じる風合いの秘訣や、「生きた産業」として残していくために挑戦することとは。

高谷健太(以下、高谷):僕も伊勢木綿の製品をいくつか持っています。特にガーゼのハンカチはふわふわで、羽毛布団やカシミヤのような不思議な感覚を抱きます。伊勢木綿のこの独特の風合いは、どのように作られているのでしょうか?

臼井成生・臼井織布代表(以下、臼井):伊勢木綿は、撚りの弱い単糸を使用しているため、洗っていくうちに撚られた糸が綿(わた)に戻ろうとして、生地が柔らかくなる特徴を持ちます。一般の木綿は洗えば硬くなるのに対して、伊勢木綿は洗えば洗うほど柔らかな肌触りと、古布のような素朴な風合いが出てくるわけです。先染織物なので、綺麗な色柄の格子や縞模様ができることも魅力です。

高谷:使えば使うほどに味が出て、末長く愛でることができるのですね。

臼井:そうです。かつては手織りでしたが、明治時代にトヨタの創始者・豊田佐吉氏が設立した豊田式織機から購入した力織機を現役で30機ほど稼働させています。大正時代に発明された自動織機よりも古く、部品の生産も終了していますが、単純な機械設計のため自分たちで修理ができるのが救いです。廃業した機屋から使わなくなった織機や部品を譲り受けて使ったり、自分たちで代替品を作ったり。からくりみたいな感じで使い続けています。

高谷:すごいですね。力織機をこんなに稼働させている機屋さんは初めて見ました。織物に限らず、日本にそういった物作りができるところが、あとどのくらい残っているのか考えてしまいます。

臼井:われわれの織機は手織りと同じスピードなので、1分間で織り上がるのはわずか3センチ。一反(約12〜13メートル)を織るには1日かかります。ゆっくり織るからこそ、ふんわりとした織物に仕上がる。そもそも現代の織機では、柔らかな糸が切れてしまい、織ることも出来ません。

高谷:この地域では古くから木綿の織物が盛んだったのでしょうか?

臼井:はい。江戸時代、この地方は綿花の一大産地でした。綿花栽培に適した気候に加えて、水、土、肥料となるイワシが豊富だったことが大きな理由です。伊勢木綿は、当時から伊勢神宮の参拝土産の一つとして、また日本橋の呉服問屋でも売られていました。最盛期の明治時代には、大きいところだと年間100万反を、われわれのような小さな企業でも年間1万反を織っていました。しかし高度経済成長期以降、化学繊維の発展や海外から安価な製品が輸入されるようになり、伊勢木綿の需要は落ち込んで、製造業者のほとんどが廃業してしまいます。かつてこの一帯には伊勢木綿を織る機屋がたくさんありましたが、残ったのはうちだけです。

高谷:臼井織布さんだけが今も続いている大きな理由は何なのでしょうか?

臼井:時代に合わせて物作りを変えてきたことでしょうか。かつては寝巻を中心につくっていましたが、今はカバンやストール、ポーチなども作っています。そもそも私は、“伝統産業”と言われているうちはダメだと思っています。ガラスケースの中で展示される時点で、時代の流れに乗れず衰退してしまったもののように感じますから。厳しい戦いであっても、実際に着られる物や使われる物、そして「生きた産業」として伊勢木綿を残したいんです。

高谷:素晴らしい心意気だと思います。ファッションを生業にする者として、僕も今まさに取り組んでいることの一つです。それでは臼井さんは今、伊勢木綿を通してどんなチャレンジをしているのでしょうか?

臼井:手探りではありますが、自社で商品企画とデザイン、製造、販売を行っています。柄のデザインも当社の若いスタッフが担当しています。伊勢木綿の反物は色柄のバリエーションが豊富なのも特徴で、同じ柄の着物を着ている人が何人もいたらお客さまに申し訳ない。そのため、基本的に一度織った色柄は二度と作りません。

高谷:伊勢木綿への覚悟が伝わってきますね。

臼井:さらに挑戦的な試みとして、他社とのコラボレーションも行っています。足袋や手ぬぐいを現代風にアレンジする京都のブランド「ソウソウ(SOU・SOU)」とのコラボでは、伊勢木綿の名前が広がり、「着物をあつらえたい」というお客さまがぐっと増えました。本当にありがたいです。こういったコラボには積極的にチャレンジし、自社商品の企画力ももっと高めて、商品のラインナップも増やしてきます。


 事務所の黒板には、臼井さんの先代が書き残した“継続は力なり”“知足安分”という言葉があった。さらにインタビューの最後には、次の担い手として息子さんの臼井良貴氏を紹介してもらった。250年という伊勢木綿の歴史も、一日の積み重ねなのだ。そしてその歴史は、明日へと続いていく。

 昨今、「新時代におけるラグジュアリーとは何か」を僕なりに考えていた。華美できらびやかな世界だけでなく、その対極ともいえる素朴で庶民的な魅力を持ったものも真のラグジュアリーになりうるのか。ずっと答えを出せずにいたが、臼井織布に足を運んだことで、探し求めていた答えに少し近づけた気がした。生産方法や製品の特徴、そして物作りの歴史において、「ほかの何ものにも変えがたいこと」こそが揺るぎない価値であり、真のラグジュアリーなのだと思う。

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