PROFILE: 加納郁子/「アンヒュッテ」スタイリスト

神奈川・海老名の美容室「アンヒュッテ」で働く加納郁子さんは、手話を用いて接客を行う“手話美容師”だ。手話を体得したのは美容師としてキャリアを積んで13年目のこと。きっかけは子どもからの何気ない一言からだったが、現在は手話なしの美容師人生は考えられないという。その変化を通して得た気づきから現場で見えてきた課題、そして美容師業界の構造的課題までを聞いた。
手話が変えた美容師人生
WWD:手話を体得した経緯は?
加納:2年前、自治体が主催する手話入門講座で勉強しました。きっかけは、子どもから「手話できないの?」と聞かれたこと。コロナ禍の当時、小学校は音楽の授業で歌う代わりに手話歌を実施しており、子どもにとって手話が当たり前になっていて。ろう者が登場するドラマの影響もあり、気軽な気持ちで始めてみました。実際はかなり本格的な講座で、週1回、1年間通いました。文法から、ろう者がどう世界を認識しているかまで教えてもらいました。
WWD:仕事につなげる思いはあった?
加納:最初は「接客用語が分かれば」程度の気持ちでした。というのも、ろう者が来店されるのは1年に1回あるかないか。SNSで手話の接客動画を発信し始めたところ、来店者が増え、「勉強しなきゃ」とさらに勉強を重ね、気付いたら多くの人が来店してくださるようになりました。
WWD:その中での気付きは?
加納:一番驚いたのが、「話している様子が楽しそうでうらやましかった」と言われたこと。ケアの方法を手話で説明すると「そんなことまで教えてくれるんだ」と喜んでくれました。
WWD:筆談では賄いきれない部分に美容室で施術を受ける喜びがあった。
加納:筆談は手が止まってしまうので、お互いにどこかでできる範囲を決めて妥協してしまう。伝えたいことも伝えられず、聞きたいことも聞けない。美容師側も時間内に施術を終えなければという焦りもあると思います。
「やりたい髪形が伝わらない」と自分で切る人も多いです。口の形で言葉を理解することもあり、マスクが前提となったコロナ禍は特に自分で切る人が多かったようです。3年間美容室に行ってなかった人に「月1回来るね」と言われたときはうれしかったです。
WWD:施術の上での違いはある?
加納:雑談と施術を同時にできないがゆえの違いはあります。最初は会話を目的に来店してくれていることもあり、手を止めながらになって、カットに2時間かかるときもありました。今は、カット中はカットに徹し、カラーの放置時間に話すなど、切り替えています。あとは、触れるときやシャンプー台を動かすときは必ず肩を叩くなどを意識しています。
WWD:程度の感覚はどう共有する?
加納:聞こえる人も聞こえない人も一緒で、写真で確認します。本来、「少し」がどの程度かも人によって違いますよね。それは手話も一緒。顔の表情も大切で、話している内容と合っているかどうかで伝わりやすさが変わります。認識共有やすり合わせの難しさ自体は変わらなくて、手段が違うだけだと思っています。
WWD:仕事観は変化した?
加納:最初は手話美容師が自分の代名詞になると思っていませんでした。発信を始めたときは正直、差別化になればという気持ちもありました。美容師として、技術で特別なところがあるわけではない。友人に「手話美容師の第一人者だね」と言われたこともありますが、発信していないだけで、そういう人はきっとたくさんいると思っています。
WWD:美容業界とろう者の間にある課題は。
加納:時間を要することを許容する土壌がまだ育っていないと思います。そもそも、ろう者の存在やその多さに気付いていない。ろう者側のハードルと美容師側の認識の両方の影響で、互いに見えていない状況があり、「対応しよう」という動きが生まれにくいと感じます。
また、美容師側にろう者が少ないという話もよく聞きます。ろう学校に美容科はありますが、理容師になるケースが多いようです。ろう者の子から「美容師になりたい」とDMで相談を受けたこともあります。その子は学校の先生から、美容師学校に通うハードルやその後の美容室での働き方を考えると「難しい」と言われたそうです。
ろう者と接する機会が増える中で、「聞こえない人に特化したサロンがあれば」と考えることが増えました。実は、来年からろう者の美容師の子と一緒に働く予定です。彼女は私がいるから「この店で働きたい」と思ってくれました。彼女の存在によって、ろう者のお客さまにさらに心地良い美容室体験を届けられるはずで、今からとても楽しみです。