建築、デザイン、現代アート、そしてまちづくり。偶然の出会いから始まったひとつのホテルの開業が、今年、国際芸術祭の初開催につながろうとしている。9月19日に開幕する「前橋国際芸術祭2026」は、群馬県前橋市が2016年に策定したまちづくりビジョン「めぶく。Where good things grow.」の10周年を契機に企画された。実行委員長兼総合プロデューサーを務めるのは、前橋市出身で、ジンズホールディングスの創業者である田中仁代表取締役会長CEOだ。
民間主導のもと、官民一体で推進されてきた前橋の中心市街地再生。その取り組みの源流ともいえるのは、白井屋ホテルの存在だろう。都心から車または新幹線など公共交通機関を利用して2時間弱、わざわざ訪れたくなるアートホテルとして、取り壊される寸前だった建物をリノベーションしたのも田中会長の手腕だった。
7月17日には、イギリスのメディアのウィリアム リード(WILLIAM REED)社が主催するデジタルガイド「50 ベスト・ディスカバリー」に選出されたことが発表になったばかり。芸術祭の会期中も多くの人が訪れるであろう同ホテルで、宿泊するからこそ味わえた時間の流れを体験し、なぜこの稀有な施設が前橋に生まれ、芸術祭の開催へつながったのか探った。
白井屋ホテルは
“なにもしない旅”に寄り添う
今回滞在したヘリテージタワーは、6年もの歳月をかけて大幅にリノベーションしている。全体のデザインと設計は、建築家の藤本壮介が手がけた。4階建てのビル中央部分を吹き抜けにして、天井には大きな天窓を設置。一階の「the LOUNGE」までたっぷりと自然光が届き、インテリアや多くの植物も生き生きして見えた。
館内は、点在する17の客室をつなぐように、階段と通路が縦横無尽に行き交う。宿泊者のみが利用できるプライベートゾーンで、昼と夜とで印象が変わるため、筆者は時間帯を変えて何度も行き来し、空間とアート作品の数々を眺めて楽しんだ。
ホテルの敷地内には15人の作家の作品を展示。例えば建築家 ⼭之内 淡の「Anywhere Door」は、扉の向こう側に⾃然や建築、⽂化的背景、⼈とのつながりの模索を表現した作品だ。イタリアと鎌倉、木更津にも同様に設置されていると知り、各地に置かれた扉の風景を想像した。
群馬を拠点に絵画制作や執筆活動を続ける白川昌生の「円環ー世界 「生成するもの Ⅰ」」は、1990年代の代表作ともいえる作品。まるでこの場所に設置するために制作したかのようなサイズで描かれている。
客室内も細部までこだわっている。イギリスを代表するプロダクトデザイナーのジャスパー・モリソン(Jasper Morrison)や、イタリアの建築家ミケーレ・デ・ルッキ(Michele De Lucchi)、現代美術家のレアンドロ・エルリッヒ(Leandro Erlich)、そして藤本壮介が手がけた4つのコンセプトルームは、いずれも世界にここだけの客室だ。
ジュニアスイートやエグゼクティブルームなど、コンセプトルーム以外の各部屋も、ライアン・ガンダー(Ryan Gander)、高谷史郎、塩田千春、八木隆行、竹村京ら、国内外のアーティスト作品が飾られ、作品と暮らすような豊かな時間を過ごせる。17室全てがそれぞれにユニークなので、何度でも滞在したくなるだろう。
ヘリテージタワーの吹き抜け空間を、より一層印象的にしているのは、レアンドロ・エルリッヒのコミッションワーク作品「ライティング・パイプ」だ。来日中だったレアンドロが田中会長とたまたま知り合い 、プロジェクトに興味を持ち工事中の館内を訪問。かつてパイプが通っていた穴の跡を見つけ、着想した作品だという。本作は21時を過ぎると、内部のLED照明の色がゆるやかに変化。1階のthe LOUNGEからその様子を眺めているだけで、不思議とリラックスできた。
the LOUNGEは宿泊者以外も利用でき、モーニング(事前予約制)やランチ、アフタヌーンティーなど、多彩なメニューが楽しめる。しかし、21時以降は宿泊者限定に。しかも群馬の郷土料理「おきりこみ」が夜食として味わえるのも嬉しい。
遅ればせながら、念願の初訪問となった筆者。建築やアート作品についての情報はホテルの公式ページや多数のメディアで目にしてきていたが、滞在して初めて、これほどまで“なにもしない旅”に相応しく、日常から離れて贅沢な時間を過ごせるホテルだったのか、と驚いた。
企業経営者の視点で
市のビジョン策定から関与
白井屋ホテルはもともと、300年もの歴史ある老舗の白井屋旅館として江戸時代に創業。明治・大正・昭和の時代には旧宮内庁御用達となり、明治の文豪 森鴎外や陸軍大将だった乃木希典ら著名人にも愛され、市随一の旅館として栄華を極めた。しかし、1970年代にホテルへ業態転換するも、生糸産業の衰退と共に2008年に廃業を余儀なくされる。
街全体が閑散とし、ホテルも取り壊しの危機にあった12年、前橋市出身の縁から、たまたま講演に訪れた田中会長に、市の財界人らがホテルについて相談を持ちかけ、つながりが生まれる。そして14年、田中会長が私費で設立していた財団の活動の一環として、ホテルの再生プロジェクトが始動した。
この取り組みが、いちホテルのリノベーションにとどまらず、街づくりへと広がっていった背景には、「廃れてしまった地域だからこそ、本気で取り組めば新たな価値が創出できるのでは」という、田中会長の企業経営者ならではの視点があった。
また経営では一般的ともいえる事業のビジョンが、自治体においては明文化されていないことに驚き、前橋市にビジョン策定を提案。自身の財団が資金を負担し、市との官民共創事業に取り組んで、「めぶく。Where good things grow.」という言葉が掲げられた。
そもそもホテルは、人が集まるところにニーズが生まれて成り立つものであり、街とともにある存在だでは「めぶく。」ためのホテルはどうあるべきか?そのホテルに泊まること自体が旅の目的となる「デスティネーションホテル」として、どうあるべきなのか。
田中会長は、事業優先の視点であれば有り得なかったという6年もの歳月をかけて細部の細部までこだわりぬき、「白井屋ホテル」を20年に開業。
敷地内には、リノベーションした「ヘリテージタワー」と並ぶように、わずか8室の客室と屋上アートで構成した「グリーンタワー」も新築。開業5周年を迎えた25年春には、長期滞在も可能な「ミナ ペルホネン(MINA PERHONEN)」監修の2部屋も増設した。
芸術祭では、毎冬恒例の
アートイルミネーションでコラボ
9月19日に開幕する「第一回 前橋国際芸術祭2026」に合わせ、白井屋ホテルでは冬の風物詩として親しまれている、アートイルミネーションを実施予定だ。今年はミロコマチコがインスタレーション作品を制作する。
当たり前のことだが、ゆったりとした時間を過ごすホテル滞在も、街に広がる芸術祭のさまざまな催しも、実際に前橋市を訪れて初めて楽しめるものだ。
前橋にもアートにも、これまで全く縁がなかった、という方ほど、先入観なくその魅力を存分に味わえるはず。今秋はぜひ、変わり続ける前橋市を訪れてみてほしい。