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なぜ渋谷で西武が閉まり、パルコが復活したのか 元西武百貨店社長・水野誠一氏に聞く【シブセイと私】

PROFILE: 水野誠一/IMA代表取締役・元西武百貨店社長

水野誠一/IMA代表取締役・元西武百貨店社長
PROFILE: (みずの・せいいち)1946年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、西武百貨店に入社。渋谷店長時代に「ロフト」「シード」を開発し、セゾンと渋谷の黄金時代を築く。90年に46歳の若さで社長に就任。その後、参議院議員などを経て、95年にIMAを設立 PHOTO:YOSHIKAZU MASUDA

“シブセイ”の愛称で親しまれた西武渋谷店が9月30日に閉店し、1968年から続く58年間の歴史に幕を下ろす。同店は渋谷が「若者の街」「ファッションの街」と呼ばれるにあたり、先導的な役割を果たした。それゆえ単なる商業施設の閉店という以上に、一つの時代の終焉を印象付ける。セゾングループ黄金期のキーマンで、西武渋谷店にも深く関わった水野誠一氏は閉店をどう見ているのか。

WWD:西武渋谷店の閉店をどう受け止めているか。

水野誠一IMA代表取締役(以下、水野):いつかはこうなるだろうと思っていた。前々から再開発の話はあったし、大家さん(地権者)との関係も複雑だった。「ついに来たか」という印象だ。私も渋谷西武には特別な思い入れがある。残念の一言だ。

WWD:水野さんは渋谷西武の店長を務め、1986年のシード館(現モヴィーダ館として「無印良品」が入る)、87年のロフト館の立ち上げを指揮した。

水野:そもそも西武百貨店に入社するきっかけが渋谷店だった。10代の頃、私は石津謙介さん(1911〜2005)の「VAN」に憧れていた。日暮里の開成高校に通っていたため、当時まだ店数が少なかった「VAN」を求めて山手線で池袋西武に足を延ばした。池袋西武は最先端のファッションを揃えた百貨店で、「VAN」をきっかけに頻繁に通うようになった。すっかり常連客になって1968年に渋谷西武が開業する際、オープニングイベントに招待された。

WWD:慶應の学生のとき?

水野:そうそう。そこで見たA館中二階の「カプセル」という自主編集売り場に衝撃を受けた。インテリアデザイナーの倉俣史朗さんが手がけた店舗は、アクリルのカプセル状のショーケースに服を宙吊りにした斬新な空間だった。そこにアバンギャルドな気鋭のデザイナーの服が並び、ジミ・ヘンドリックスの新譜が流れる。一緒に行った友人と「この店は完全に百貨店の概念を越えている」などと話していたら、そこに居た男性から「君、詳しいね。西武に来ないか」と声をかけられた。それがカプセルを仕掛けたプロデューサーの三島彰さんだった。

「堤清二の西武」に入社したい

WWD:水野さんのお父さまはフジサンケイグループ創業者の水野成夫さん(1899〜1972)。西武入りはすんなり認められたか。

水野:父には自分の会社に私を入れる考えはなかった。ただ父が勧めたのは親しい五島昇さん(1916〜89)が率いる東急グループだった。大学の教授も「百貨店に入りたいなら、三越でも伊勢丹でも紹介するぞ」と言ってくれた。でも私の希望は西武。堤清二(1927〜2013)がいる西武百貨店で働きたかった。当時は呉服系の三越や高島屋に比べ、西武は三流デパートと言われていた。だから周囲はみんな反対した。でも私は、これから西武は単なる百貨店以上の存在なると見通していた。

WWD:入社後は?

水野:まず配属されたのが渋谷西武。駆け出しの婦人服担当で印象に残っているは、ミカレディの米国ブランド「ジョナサン・ローガン」のテコ入れだ。裏地がない一枚ものの化繊の服で、当時の日本人の好みとは合わず低迷していた。販売員に尋ねたら、美容室の制服として買う人がけっこういるらしい。ならば新作が入荷されたら、美容室に集中的にハガキを送ろうとなった。そうしたら一気に売り上げが伸びた。小売業はアクションを起こせば、何かしらの結果が出ることを学んだ。

WWD:その後、本社の営業企画に異動して、海外催事(フランス展やイタリア展など)、外商催事「高輪会」の成功に寄与する。

水野:海外催事は平凡出版(現マガジンハウス)の雑誌とのタイアップで、海外での取材と仕入れを同時に行い、雑誌が出るタイミングに合わせて催事を開いた。私は「立体付録」と呼んでいた。今でいうメディアミックスだ。高輪会は百貨店による店外催事のはしりで、これも2日間で3億円もの売上高を達成した。これはバブル期には100億円、近年でも数十億円レベルに成長して百貨店の外商催事の金字塔といわれるまでに育った。

本社の営業企画として結果を出したものの、渋谷西武に憧れて入社した身としては、再び渋谷で面白いことをやりたいという気持ちが強くなっていた。そんなとき渋谷西武が新館を作る計画が浮上し、私が店長に就任することになった。

シード館とロフト館の革新性

WWD:それで店長としてシード館(1986年開業、現モヴィーダ館として「無印良品」が入る)とロフト館(87年開業)を手掛けた。

水野:すでに新館を建てることは決まっていた。では中身をどうするか。80年代半ばはDCブランドの全盛期。単にブランドのテナントを誘致するだけでは、よくあるファッション館になってしまう。かつての「カプセル」のような店を作りたい。そこで国内外の人気のデザイナー、気鋭のデザイナーの服を集めてブランドミックスで展開することにした。三宅一生さん、山本耀司さん、川久保玲さんのブランドを上層階でミックスした。ブランド側からはお叱りをうけたけれど、そのうち「ヨウジヤマモト」と「コム デ ギャルソン」の服をお客さまが自分のセンスでコーディネートする時代が来るという信念があったし、実際にそうなった。パリ、ミラノ、ロンドンだけでなく、スペインやベルギーにもバイヤーを送り込み、当時のシビラなど新しい才能の発掘にも余念がなった。

WWD:ロフトは先行していた東急ハンズを意識したのか。

水野:浜野安宏さんがプロデュースした東急ハンズは大きな存在だった。同じような内容では、二番煎じで終わってしまう。そこで東急ハンズが打ち出すDIY(Do It Yourself)に対して、ロフトはPIY(Play It Yourself)を前面に出した。要するに「大人のひとり遊び」の館である。ゴルフや麻雀のように会社員の仕事の延長のような趣味ではなく、個人がひとりの世界に没頭する趣味の空間を作る。堤さんには「社長も小説を書くでしょう? これからはそうした没頭できる趣味を各自が持つ時代なんですよ」と説得した。

WWD:なぜシード館やロフト館は一時代を築けたのか。

水野:心の底からファッションが好き、雑貨が好きなスタッフたちが膨大なエネルギーを費やしたからだろう。サラリーマンのように与えられた仕事をやるのではなく、仕事も遊びも垣根なく楽しめるスタッフがたくさんそろっていた。仕掛ける側の熱量は売り場空間を通じてお客さんに伝わる。西武に来れば、新しい発見や刺激があると認められ、感度の高い若者たちが集まった。

当時の渋谷西武でよく言われた逸話がある。お客さまに「ラクダのシャツはどこですか」と聞かれたら、「当店にはございません。(隣の)東急東横店でお求めください」と案内する。ラクダのシャツは昔の年配の人が着ていた高級肌着。先端のファッションを追求する渋谷西武はそうした年配者向けの商品は置かない。ラクダのシャツには需要はあるけれど、他店で扱っているなら他店にお任せすればいい。そうした強い自負があった。

普通の百貨店になってしまった

WWD:西武に限らず、当時のセゾングループにはそうした明確なメッセージがあったと。

水野:堤清二さんが第一線で経営していた時代は、「他店で売れているから」なんて言おうものならこてんぱんに叱られた。「他店が売らないモノを売れ」と。ラクダのシャツの話でいえば、この頃にファッションデザイナーが手掛ける下着を他に先駆けて取り入れて評判になった。新しいものに価値を見出し、育てていくのが西武らしさだった。

WWD:同じセゾングループでもパルコ、良品計画(「無印良品」)、ファミリーマートなどは資本体制を変えながらも、今も市場をリードする存在であり続けている。渋谷でもパルコは建て替えを経て過去最高売上高を更新するほど好調なのに対し、西武は撤退に追い込まれる。この違いは何か。

水野:パルコは徹底してパルコを貫いている。親会社が変わり、時代も社会も消費者も変化した。一時は普通の専門店ビルとあまり差がなくなっていたこともあった。それでも渋谷の建て替えを機に、再び(実質的な創業者の)増田通二さん(1926〜2007)の精神に原点回帰したように私には映る。いま渋谷パルコに行くと、ある意味で非常に懐かしく感じる。もちろん私の時代に比べて様変わりしているのだけれども、増田さんの精神、パルコ文化が生き続けている空気を感じる。

一方、西武らしさは失われた。特にセブン&アイホールディングスの傘下になってからは現状維持が精一杯で、思い切った進化を遂げることもできなかった。目新しさのない売り場からお客さまが離れ、当然ながら売り上げも減る。

WWD:進取の気性が薄くなってしまったと。

水野:普通の百貨店になってしまった。西武が普通のことばかりやっていたら三越にも伊勢丹にも勝てないのは当たり前だ。その結果が池袋西武の縮小であり、渋谷西武の閉店といえる。西武百貨店の元社長としては忸怩たる思いもある。残念で仕方ない。

街づくりは競い合ってこそ

WWD:東急による渋谷の「100年に1度」の大規模開発をどう見ている?

水野:渋谷らしさが失われることを危惧している。渋谷の魅力は混在性だ。古いものと新しいものがミックスされて独自の文化を築き上げてきた。再開発の重要性は理解するものの、あまりに急速にあまりに大規模に作り替えてしまうと、微妙なバランスで成り立ってきた渋谷の味が損なわれる。都市の文化、街のたたずまいは、そこに暮らす人、商売する人、訪れる人、そして企業が一緒になって少しずつ築き上げていくもの。デベロッパーの合理的な理屈では割り切れない部分こそが、都市の魅力の源泉だ。計算ずくでやってもうまくはいかない。

WWD:西武(セゾングループ)と東急が渋谷で競い合っていた時代とはだいぶ異なる様相だ。

水野:西武と東急が互いに対抗心を燃やして競い合ったから、1970 ~80年代にエキサイティングな街に発展した。西武が渋谷西武、ロフト館、シード館、そして渋谷パルコ。東急が東急本店、東急東横店、渋谷109、東急ハンズ、Bunkamura。加えてそれぞれが劇場や映画館、ライブハウスを運営し、商業や文化が大きく花開いた。それがセゾンが衰退し、渋谷は東急の城下町のようになってしまった。意外性がなくなった。

同じグループでもセゾンの総帥である堤さんと、パルコを率いる増田さんは才能を認め合うライバル同士で、お互いに「負けるものか」と競い合っていた。2人の強烈な磁力に惹きつけられて、時代を代表するクリエイターたちが集まった。だからあの時代のセゾンと渋谷は輝いていた。

WWD:堤氏は街づくりにどんな考えを持っていたのか。

堤さんがよく言っていたのは、街づくりにおいては「点」と「点」を繋いで「線」にする。企業がコントロールするのはそこまで。線から逸れたところに、計算できない毛細血管がたくさん生まれて、魅力的な「面」へと発展する。渋谷では西武とパルコという点を、公園通りやスペイン坂などの線で繋ぐ。そうすると、新しいことに挑戦したいお店がたくさん集まって、一帯がワクワクするような面になった。

渋谷の魅力は何十年、あるいは100年以上かけて先人たちが築き上げてきた蓄積の上にある。訪れた人々の記憶の重なりの上にある。ここからさまざまなファッションや音楽、アートなどが生まれた。築き上げるのは膨大な時間がかかるけれど、失うのは一瞬だ。

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