2011年3月11日の東日本大震災から、15年が経つ。福島第一原発のある大熊町や双葉町では、一部の復興特区をのぞき、今なお大半が「帰宅困難区域」で、震災の深い傷は文字通り治癒の途上にある。
無撚糸タオル「エアーかおる」で知られる浅野撚糸は23年4月、その双葉町の復興特区に30億円を投じて「フタバスーパーゼロミル工場(以下、「スーパーゼロ」工場)」を新設した。震災の残した傷の最深部にある「スーパーゼロ」工場は、まさに「震災と復興」の象徴的な存在だ。
「震災と復興」「フクシマと原発」は、大半の人にとっては大きく重すぎるテーマで、震災から15年が経過しても答えや解決策は出ていないし、ともすれば大きすぎるテーマの前に思考停止してしまう。また、日本の繊維・ファッションの製造業という観点でも、「震災とは?」「復興とは?」「支援とは?」などの震災に関わるテーマに加え、「人手不足」「生き残り策」などの課題も内包している。
だが、安心してほしい。浅野撚糸の「スーパーゼロ」工場は、そうした悩み、あるいは気後れを同社の驚くほどフワフワなタオルのように優しく包み込む。Googleマップの上空写真で見ると「ゼロ」をかたどった同工場は、撚糸工場というにはあまりにもド派手で、明るい。建物の中にデカデカと掲出されている浅野撚糸の歩みは、同社の数回にわたる失敗や倒産危機、そこからの復活劇がドラマ仕立てで演出され、同社のこれまでのTV出演モニターとともにわかりやすく伝えている。
浅野撚糸は当時の年商よりも大きな投資額を投じた「スーパーゼロ」工場を通じ、体当たりかつ等身大で「震災と復興」に取り組み、それらを伝えることで、訪れる人々にこの大きなテーマを考えるきっかけを与えているのだ。
撚糸という繊維製造業の中でも日陰の存在であった町工場が、なぜ震災の最深部で復興に取り組むことになったのか。東京都心から電車と車を乗り継いで4時間半ほど。「スーパーゼロ」工場の今をリポートする。
浅野撚糸が双葉町に工場を新設したワケ
浅野撚糸の本社は岐阜県安八郡(やすはちぐん)にあり、毛織物の産地として知られる尾州にある。撚糸は糸を撚り合わせることで強度を高める工程で、特に同社は異なる糸を撚り合わせる技術に強みがある。同社の主力製品である無撚糸タオル「エアーかおる」も、コットンに水溶性ビニロン(水ビ)を撚り合わせ、最終的にお湯で水ビを溶かすことで糸に驚異的な膨らみを持たせている。
そんな同社がなぜ双葉町に工場を作ったのか。同社の主な取引先はタオルメーカーで、愛媛県の今治、大阪の泉州、そして三重の「おぼろタオル」であり、福島第一原発の周辺には縫製工場や小規模な織物企業などが点在しているが、産地と言えるほどのエリアでもない。福島との縁と言えば、たまたま浅野雅己社長が福島大学に通っていたくらいだ。きっかけは経済産業省からの声がけだった。「スーパーゼロ」工場の立ち上げから関わり、同工場の所長として現場の指揮を執る河合達也常務執行役員は、「工場用地の見学会には、浅野社長が所用で行けなかったため、私が金融関係者と2人で、浪江町や大熊町など5カ所の候補地を回った。双葉町の候補地は避難指示の解除が進んでおらず、造成も途上。当時は雨で土地がぬかるみ、まともに歩くことができないような有り様だった。私が作成した資料では候補の順位は一番下だった」と振り返る。
にも関わらず浅野社長が選んだのは、その双葉町の用地だった。その真意を浅野社長はこう明かす。「投資を決めたのは19年。知り合いに頼まれて福島県を訪れたときは言葉を失った。当時はすでに津波の瓦礫などは撤去されていたものの、町の中には津波被害を免れた家屋や小学校もあるのに、人がまったくいない。ゴーストタウンのような街の姿には衝撃を受けた。でも投資を決めた一番大きな理由は、双葉町にものすごい可能性を感じたから。『原発事故からの復興を本気で目指す町』。世界中を見回してもここにしかない価値だ。除染や帰宅困難などの課題も山積みだったけど、それ以上の可能性を感じた。まあそれに、投資を決めた19年はタオルが売れまくって業績が絶好調だったことも大きかったね」という。原発事故といえばチェルノブイリがあったが、あくまでダークツーリズムのような文脈で「復興」ではない。「除染が進めば、日本だけでなく世界中から人が訪れ、大きな商機になる。そう直感した」。
そのため「スーパーゼロ」工場は、観光型工場という体裁になっている。撚糸機は2400錘、月間の撚糸生産能力は36トン。建物の1/3弱を占めているに過ぎず、大部分を占めているのは観光客向けのスペースで、残りの約1/3が自社の糸を使った名物タオル「エアーかおる」の物販エリア、さらに残りの約1/3がカフェやイベントスペースだ。撚糸工程は、ガラス張りの大きな見学用ルートを通して見られるようになっているが、その見学ルートの最大の見どころは、撚糸工程よりも、冒頭で記した数回にわたる倒産の危機とその復活劇をストーリー仕立てで壁際に掲出した同社の沿革だ。撚糸工場の存在感は正直スペース以上に小さく、それ以上に来館者を楽しませようという意気込みを感じる。
だが双葉町は、爆発事故を起こした福島第一原発1号機・2号機のある大熊町に隣接し、今も町の大半が「帰宅困難区域」に指定されている。震災前に約7000人だった人口は現在、約200人に過ぎず、訪日客の旅行スポットになっているとは言い難い。浅野社長は「今でもその直感に間違いはないと確信している。日本を訪れる世界中の観光客にとって、銀座よりも表参道よりも、一番魅力的な場所はここ双葉町だ。近い将来には必ず『原発事故から立ち直った町』は、世界中から人を呼び寄せるはずだ」。
だが、「スーパーゼロ」工場には年間1万人もの来客がある。取材に訪れた3月6日にも、20〜30人のスーツ姿の研修らしき団体客が2組ほど視察に訪れていた。河合所長は「平日はほぼ毎日2〜3組が研修に訪れ、土日の来客も珍しくない」と語る。大半の来客は観光客ではなく企業や自治体関係者などの研修や視察だ。河合所長は「当初は旅行会社などと組んでツアーなども企画したが、放射能への忌避感は強く成立しなかった。逆に今は何もしていないのに、研修や視察で訪れた人の口コミで評判となり、まずは福島県内から、やがて県外からも訪れるようになった」。
研修や視察がひっきりなし、というのは実感として非常に理解できる。「フクシマの復興」には誰しも関心が高いものの、原発事故という未曾有の事故に対して、多くの企業や人はどうして良いのかわからないというのが現実だ。だが、「スーパーゼロ」工場は訪れると、そうしたモヤモヤが晴れるような気がするのだ。それが多彩な企業や自治体関係者などに口コミで広がり、1万人を招き寄せる。
それでも広大なスペースのあるカフェと物販エリアが賑わっているとは言い難い。年間の売り上げは1億円ほど。同社の岐阜本社にある物販スペースが3億円ということを考えると、やはり小さい。河合所長は「事業所単体だと赤字なので、所長の私と開業からいるベテランスタッフでイベントや物産展などに出展し、タオルを販売して、赤字を減らしている」という。
目指すは売上高100億円
復興特区で助成金が多かったとは言え、当時の年商以上の投資を行い、事業所単体で赤字。でも、浅野社長は元気いっぱいだ。「いま?もうね、絶好調ですよ。実は『スーパーゼロ』工場が竣工後から赤字に転落して、コロナ前に23億円あった売上高は24年10月期に18億円にまで落ち込み、3期連続の赤字になった。24年には体調も崩して、『会社も自分も、もう駄目だ』と何度も思った。でも25年10月期は売上高が3割近く増え、1000万円だが黒字に転換し、26年は売上高30億円の突破はほぼ確実だ」。
浅野撚糸が「絶好調」なのは、コロナ禍の最中に水面下で進めてきた特殊撚糸「スーパーゼロ」の用途開拓が成功したからだ。主力のタオルに加え、デニムやカットソー、ニット生地などへと広がっているからだ。「コロナ禍でタオル需要が壊滅し、冠婚葬祭が減少したため、現在もタオルの市場は復活していない。その代わりに、デニムだとカイハラ、カットソー/ニットだとドイツのズドールなど、世界の有力な紡織企業からの大型受注を次々と獲得している」(浅野社長)という。ジーンズはすでに「ヤヌーク」など一部の目利きブランドが製品化しており、タオルをフワフワにする無撚糸技術は見た目以上のはき心地の良さを付加するためプロの間での評価は高かった。「このまま行けば来年以降には設備の新設が必要になるし、実はM&Aも検討している。双葉町も見た感じはまだ何も無いように見えるでしょうけど、今年以降どんどん新しい施設や工場が建ち始めると聞いている。そうなれば物販とカフェの売り上げも増える。最近、新たな目標として年商100億円を目指すことに決めた」という。
斜陽の繊維産業が生み出した「異色の経営者」
そう語る浅野社長の話を聞いていると、いまは建物もまばらな周辺の土地が今年来年には工場だらけになりそうな気がしてくるから不思議だ。実際に空き地に見えても「大半はすでに事業所用地として売却済み」(関係者)という声もある。
1969年創業の浅野撚糸だが、企業として急成長したのは、実はこの20年ほどの話だ。そもそも「撚糸」という工程自体、あまりスポットライトが当たることのない分野である。テキスタイル生産は大きく綿(ワタ)から糸を作る「紡績」、糸を織る「織布」、あるいは編み上げる「ニッティング」という2つの工程に分かれる。撚糸は、「紡績」と「織り/編み」の間に行う、糸加工の1工程に過ぎない。糸の強度を上げたり、異なる糸をミックスして機能を付与する重要な工程ではあるものの、花形は紡績や織り/編みであり、野球の打順に例えると、先頭打者や中軸が紡績や織り/編みで、撚糸は2番バッターのようにいぶし銀の存在だと言える。
そもそも繊維産業自体が斜陽なのに、さらにその下請けの撚糸。こうした状況を打破すべく七転八倒を繰り広げてきた経験が、「世界一の撚糸職人」を自称する浅野社長のユニークな経営スタイルとキャラクターを作り上げた。デニム生地開発のスペシャリストで30年の付き合いのある山田善紀Y's Deco(ワイズデコ)社長は「撚糸は、機械の進化はほぼ止まっている『枯れた技術』だが、だからこそ職人的な技術とクリエイティブな発想が生きる分野で、生地開発という分野で見れば、ものすごい可能性があった。それを体現したのが浅野社長だった」と指摘する。
浅野撚糸の商品開発のパートナーとして、欧米のラグジュアリー市場の開拓をサポートしてきたテキスタイルデザイナーでクリエイティブ・ディレクターの梶原加奈子さんも「テキスタイルでも製品でも、勘所や本質を見抜く力がものすごく高く、しかも思い切った投資や開発をやり切る胆力もある。テキスタイル開発はうまく行かないときのほうが多いし、失敗ばかりなので、そうなると”無駄”として途中で切り上げられることも多い。なのに浅野社長は、苦しいときでも、とにかく前向きで諦めることもない。用途開拓が成功したのは、そうした浅野社長の『クリエイティブで前向きな職人気質』が大きい」。
地元出身の社員が語る「復興」
「地元に残って少しでも復興に貢献したかった」ーー「スーパーゼロ」工場の入社の動機をこう語るのは、双葉町の隣町である南相馬市出身で地元の高校を卒業後、24年に新卒で入社した岡田綾菜さん(20)だ。「スーパーゼロ」工場では、22人が働く。半分の12人が工場で、残りが物販やカフェ、来客のアテンドを行う。岡田さんは物販やアテンドなどを担うコーディネーターだ。
メディアへの露出も多く鳴り物入りで事業活動を行う「スーパーゼロ」工場だが、実は就職先としてはかなりシビアな目で見られている。岡田さんは、隣町の南相馬市で生まれ育ち、震災直後は1年ほど避難生活を強いられたものの、その後は地元に戻り、小学校から中学校、高校まで南相馬市の学校を卒業した。「地元の同級生たちは9割が県外に出る。地元に残って就職する私は少数派。条件だけならここより良い企業は他にあったし、就職先の選択肢は正直困らないほどたくさんあった」という。河合所長も「ここに縁もゆかりも無い当社が就職先として選んでもらうためには、就職説明会や地元の商工会議所などとのつながりを使った地道な活動を続ける必要がある。それでも最初はなかなか来てもらえずに苦労した」と振り返る。
それでも岡田さんが就職先に「スーパーゼロ工場」を選んだのは、「やりがいがありそうだったから」。「工場内での製造だけ、接客だけ、じゃなくていろんなことがしたいことがあったんです。『スーパーゼロ』だけが募集要項に接客、企画・運営、製造と3つともできるって書いてあって、『あ、これだ!』って」。入社前に「いろいろやりたい」と思っていた岡田さんの希望は、叶えられた。岡田さんは、毎日福島県の内外から来る団体の研修客や観光客のアテンドを行っているほか、物販の販売も行う。地元の双葉町役場や商工会議所による復興関連のワークショップやイベントの窓口として社外での活動にも参加している。
そんな岡田さんに最後、「復興とは何でしょう?」と尋ねると、笑顔でこんな答えが返ってきた。「世界中の人から憧れられる存在になることです。接客をしていると『大変だね』とか『頑張ってるね』とか言われることがあるんです。そうおっしゃってくれる方に全く悪気がないことは重々理解しているのですが、私はそのたびに同情とか哀れみみたいなことを感じちゃうんです。そうじゃない。私の大好きなこの双葉も、(出身地の)南相馬も、世界に誇れる場所だと大きな声で言いたい。いつか『そんなところで働けていいなあ、羨ましいなあ』って思ってもらいたい。それが私の復興です」。