PROFILE: デルフィーヌ・ジェルク/ゲラン専属調香師&フレグランス クリエイション ディレクター

1828年創業のフランスを代表するフレグランスメゾン「ゲラン(GUERLAIN)」で、デルフィーヌ・ジェルク(Delphine Jelk)は専属調香師として数々の名香を生み出している。若き日に手掛けた“ラ プティット ローブ ノワール”が世界的にヒットし、「ゲラン」の調香師に任命されたのが2014年。2世紀近く続くメゾンで初の女性調香師となったジェルク調香師は、伝統を深く理解しながら、既存の枠に縛られず新しい香りの世界を切り開いてきた。”香りは見えないファッション”と語る彼女の創作哲学とは──。
——2009年に発表した “ラ プティット ローブ ノワール”は世界的な成功を収め、現在もメゾンのアイコンの一つとなっています。ヒットの要因は?
デルフィーヌ・ジェルク=ゲラン専属調香師(以下、ジェルク):この香りをつくったとき私はまだ年若い調香師で、「ゲラン」のフレグランスは“母や祖母の香り”というイメージが強かったんです。だからこそ、当時の「ゲラン」には欠けていた若い世代の女性に向けたフレグランスを作りたいと思いました。着想は、ソフィア・コッポラ(Sofia Coppola)監督が手掛けた06年公開の映画「マリー・アントワネット」です。ローズ、ラズベリー、マカロン、アーモンド。それらを組み合わせると、チェリーのような香りが生まれます。そこにパチュリやリコリスのダークなニュアンスを重ね、少女のかわいらしさと大人の影を共存させました。“ラ プティット ローブ ノワール(小さな黒いドレス)”という名前も魔法のようでした。フランスでは若い女性が一番最初に手に入れるのが小さな黒いドレスで、とても象徴的なものでもあるんですね。全てがうまく重なって成功に結びつきました。少しの魔法と幸運が必要なのだと、あの経験が教えてくれました。
“見えないものを可視化する”ファッション的アプローチ
——デザインとファッションを学んだ経験は調香へも影響していますか?
ジェルク:私はファッションデザインの学校で学んでいたので、香りをつくるプロセスは服をデザインするのとまったく同じだと感じます。一番大切にしているのはムードボードです。 アイデアを可視化し、コンセプト・色・言葉・素材感を並べることで、香りという見えないクリエイションに輪郭が生まれる。視覚的な世界で生きている私にとって、それが創造の起点になります。香りは目に見えないけれど、私はいつも“見えているもの”をつくっている感覚なんです。
——「ゲラン」の伝統と、あなた自身の個性。どのように両立させていますか?
ジェルク:私はメゾンのシグネチャーアコード「ゲルリナーデ」を軸に香りをつくっています。「ゲルリナーデ」は6つの天然素材、ベルガモット、アイリス、ローズ、バニラ、トンカビーン、ジャスミンを香料としています。代々受け継がれてきたこの6つの香料が、「ゲラン」の魂とも言えるものです。私はその“赤い糸”を大切にしながら、そこに自分の感覚を重ねています。
例えば、地球の自然の香りを再現したコレクション“アクア アレゴリア”にはキューカンバー(きゅうり)の香りを取り入れたものがあります。水分が多いきゅうりは通常抽出が難しく、フレグランスの原料としては珍しいです。でも、私は出合った瞬間に恋をしてしまい、どうしても使いたかった。マーケティングチームには「きゅうり?『ゲラン』らしくない」と言われましたが、私は1830年に「ゲラン」が販売していたボディーミルクの話を持ち出し、「1830年にできたなら、2025年の私たちにもできるかもしれない」そう伝えました(笑)。伝統は私を縛るものではなく、未来へ進むための翼なんです。
——自身の作品の中でもっとも思い入れのある香りは?
ジェルク:これまで作った175作全てに思い出があります。ですが、やはり特別なのは“ラ プティット ローブ ノワール”。そしてもう一つは、今年100周年を迎えた“シャリマー”の新解釈です。私は5年前、誰にも言わずにアトリエでこっそり“自分だけのシャリマー”をつくっていました。オリジナルの本質を尊重しながら、現代的に再構築するために、バニラを大胆に増やし、動物的な要素はクリーンなムスクへと置き換えました。まさに“シャリマーの心臓”に触れる作業でした。バニラは“母の腕のような香り”とも言われ、普遍的な安心感があります。香りは大人になっても、心を抱きしめてくれる存在であってほしいんです。
「香り選びはもっと自由でいい」
——“気分が上がる香り”を選ぶなら?
ジェルク:“アクア アレゴリア”コレクションは“体に良い素材”から着想しているので、“フローラブルーム”“ローザ ロッサ”“ネロリア ベチバー”などは元気をくれる香りです。香りが心や体に与える影響を研究する学問、アロマコロジーでは、例えばマンダリンには神経を落ち着かせるなどの効能があります。香りが心にも作用することは、とても興味深いですよね。最高級コレクション“ラール エ ラ マティエール”では、フルーティーな“ペッシュ ミラージュ”のような“笑顔になる香り”がおすすめです。
——男性が香りを選ぶ際のアドバイスは?
ジェルク:日本の男性は「強い香りは苦手」と言う人が多いけれど、一緒に香りを試すと皆さん意外とウッディで濃密な香りを選ぶんですよ(笑)。なので、男性用・女性用と固定観念で選ばず、自分の感情が動く香りを自由に選んでほしいと思います。ですが、“ラール エ ラ マティエール”の中から選ぶと、“ベチバー フォーヴ”。ウッディでありながらフレッシュ。とてもシックで、特に秋に似合います。“チェリー ウード”日本の文化にある“木を燻す”感覚と、チェリーの遊び心が出会った香り。スモーキーで神秘的でありながら、どこか笑顔になる香りです。“ネロリ プラン シュッド”ネロリにターメリックとジンジャーを重ねた香り。体にも心にも良い影響をもたらすアロマコロジーの発想でつくっています。
——香りはどのようにつけると効果的ですか?
ジェルク:どう見せたいかによって変わります。強く香らせたいなら、洋服や髪にも軽く。自分だけで楽しみたいなら、手首や首筋など“体温の高い部分”に。控えめに香らせたい日は、膝裏など動くたびにほのかに香る場所に。髪にほんの少しまとうのもおすすめです。動いた瞬間にふわっと香り、本人にも心地良いですよ。
——来日で得た刺激はありますか?
ジェルク:日本は以前から憧れの国で、今回ようやく来ることができました。まず惹かれるのは、全ての所作の繊細さ。料理の美しさ、茶の動き、暮らしに漂う詩情。どれもが心を打ちます。また、香水の語源は “per fumum=煙を通して”ですが、日本のお香や焚香の文化には、香りの原点とつながる深い精神性があります。そして、私には子どもが4人いて、みんな漫画とゲームと寿司が大好き(笑)。「どうして自分たちを連れて行ってくれないの?」と大騒ぎでした。次は家族と訪れたいですね。
——フレグランスの最新トレンドと今後の取り組みは?
ジェルク:フレグランスのトレンドはファッションほど短命ではありませんが、香りの強さと持続性が傾向としてあると思います。なぜかというと、ラグジュアリーブランドのフレグランスは高価なので、買ったからには周りに気づいてほしいしずっと香ってほしいと思うのでしょう。また、若い人の間では個性を表現することがトレンドになっており、甘さのある香りが人気です。ですが、私は「ゲラン」の調香師として、トレンドを追うのではなく、革新を生み出す側でいたいと思っています。