PROFILE: 大丸隆平/「オーバーコート」デザイナー

メゾンで磨いたパターン技術で生み出される、構築的なシルエットのコート。袖を通したときのみならず、ハンガーに掛けられていても一つの“構造物”として完成された美しさを放つ。
ニューヨークを拠点に展開する大丸隆平「オーバーコート(OVERCOAT)」デザイナーが、ブランドを立ち上げて今年で10年。「僕のモノ作りは、日本の職人やその技術に支えられている」と大丸デザイナーは話す。それでもなお、地球の反対側にあるNYに拠点を置き、クリエイションを続ける理由とは何なのだろうか。(この記事は「WWDJAPAN」2025年3月10日号から抜粋し、加筆しています。無料会員登録で最後まで読めます。会員でない方は下の「0円」のボタンを押してください)
WWD:2月に日本で、2025-26年秋冬の受注会を実施した。反響はどうだったか。
大丸隆平「オーバーコート」デザイナー:特にこれといったPRをしているわけではないが、ブランドの認知がオーガニックに広がっている手応えがある。前回知った方が友達を連れてきて、その友達がまた次の人を連れてくるというふうに。(東京・青山の)ショールームも、キャパシティーがそろそろ限界に近くなっている。ブランドが知られていくことは、ありがたいことではあるが。
WWD: 立ち上げ当初は、日本市場はあまり意識していなかった?
大丸:そうかもしれない。まず、(百貨店の)ボン・マルシェや(セレクトショップの)ディエチ コルソコモ、トトカエロなどで展開を始めた。NYに直営店を作る計画もあったが、コロナの影響で延ばし延ばしになり、昨年末にようやくオープンにこぎつけた。ただ、こう言うと語弊があるかもしれないが、初めはNYに行きたくて行ったわけではない。仕事のオファーがあったから行っただけ、にすぎない。2008年か09年ごろの話だ。色々な事情が重なって、そのまま住むことになった。
WWD:どういった経緯で、NYを拠点にすることに?
大丸:ブルックリンの、アジア人4人くらいでシェアしているタコ部屋で暮らしながら、当時はとにかく、生活のために服を作っていた。偶然、ルームメイトにパーソンズ美術学校卒業生のデザイナー志望の子がいて、その繋がりで色々な仕事が舞い込んできた。
それまでにパリメゾンでがっつり仕事をしていたので、その子や周りの子が多少びっくりするような服が作れた。口コミで僕の存在がちょっとずつ広まって、そのうちに「アレキサンダー ワン(ALEXANDER WANG)」や「トム ブラウン(THOM BROWNE)」、「プロエンザスクーラー (PROENZA SCHOULER)」といったブランドとも関わるようになり、気づいたらニューヨークに根を張っていた。
WWD:日本で展開を広げたきっかけは。
大丸:コロナでそれまでの取引が全て中断し、ニューヨークの街が完全にロックダウンした。「これはまずい」と思い、作りかけのコレクションと定番を抱えて日本に戻った。
すると幸い、日本のギャラリストの知人がギャラリーのスペースを貸してくれることになった。1週間足らずくらいの会期だったが、ポップアップストアを開催したところ、思った以上に人が来てくれた。乃木坂駅からの徒歩11分の場所で炎天下、しかもコロナ第2波か第3波が来ているタイミングだったのに。すごく嬉しかった。今では日本でも徐々に取引先が広がって、今では30アカウントほどになった。
WWD:それでも、やはりNYの空気が合っていると?
大丸:そう思う。ただ僕の場合は「NYという街が好き」というより、「人」の部分が大きいのかもしれない。例えば、グラフィックデザイナーのピーター・マイルズ。彼は「オーバーコート」の名前をつけてくれた人だが、世界で5台限定で作ったテーブルを、「日本のオフィスに持っていけば?」と譲ってくれた。今回(2025-26年秋冬)のルックブックを撮影してくれたリチャード・カーンは、伝説的なフォトグラファーで、僕自身も子供の頃から憧れていた存在だ。そんな彼らと対等に仕事をし、刺激し合える環境があることがありがたいし、心地いい。
NYは、何かを作り続けていないと置いていかれる街。でも、それが逆に自分を奮い立たせてくれる環境でもある。サボり癖がある僕も、周りに優れたクリエイターがいることで、自分も手を動かしたくなる(笑)。突き動かされる感じがある。
日本のモノ作りがあるから
「オーバーコート」が成り立つ
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