ビジネス

「シード館」は異様なエネルギーに満ちていた 元そごう・西武の堤真理氏の証言【シブセイと私】

PROFILE: 堤真理/元そごう・西武取締役

堤真理/元そごう・西武取締役
PROFILE: (つつみ・まり)法政大学文学部卒業後、1984年に西武百貨店入社。渋谷店で紳士服、シード館、ファッションコーディネーター。2000年以降は本部商品部婦人服バイヤー、西武所沢店店長、そごう大宮店店長、海外事業部を歴任。2025年12月そごう・西武を退社 PHOTO:KAZUO YOSHIDA

“シブセイ”の愛称で親しまれた西武渋谷店が9月30日に閉店し、1968年から続く58年間の歴史に幕を下ろす。同店は渋谷が「若者の街」「ファッションの街」と呼ばれるにあたり、先導的な役割を果たした。それゆえ単なる商業施設の閉店という以上に、一つの時代の終焉を印象付ける。1986年に開業したシード館(現モヴィーダ館として「無印良品」が営業)は、ファッションの先端を走る館として一時代を築いた。初期にフロア責任者を務めた元そごう・西武取締役の堤真理氏が振り返る。

WWD:堤さんは渋谷西武でキャリアをスタートしたとか。

堤真理氏(以下、堤):小学生まで渋谷に住んでいた。渋谷の街は子供の頃の遊び場。離れてからもずっと愛着があった。だから新卒で西武百貨店に入社が決まり、最初の配属先が渋谷店と知らされたときはびっくりした。憧れのセゾングループで、しかも渋谷店で働けることが嬉しくて仕方ない。入社式で(セゾングループ総帥の)堤清二さんが挨拶したのを鮮明に覚えている。

WWD:何度も聞かれていると思うが、堤さんは堤清二氏の親族なのか?

堤:本当に何度も聞かれるけれど、そうした間柄ではない(笑)。たまたま名前が一緒なだけ。

WWD:渋谷店にはどれくらい在籍した?

堤:84年から99年まで計15年間ほど。紳士服が3年、シード館が9年、ファッションコーディネーターという仕事が3年。いま振り返れば、日本が好景気で西武やパルコのセゾン文化が一世を風靡していた頃から、バブルが弾けて、渋谷109を中心としたギャル文化へと渋谷の主役が交代するまでを見てきた。

百貨店とは何もかもが違う

WWD:中でもシード館でのキャリアが一番長い。

堤:開業2年目のシード館に配属されてカルチャーショックを受けた。それまで渋谷西武の紳士服売り場の担当だった。女子社員の制服を着て、メジャーを手に男性のお客さまを採寸し、スーツやワイシャツをお勧めしてきた。対してシード館はアバンギャルドというか、国内外のデザイナーによる個性的な服ばかり。当時はダークな空間演出が流行っていたため、シード館の店内は薄暗く、商品の色味が黒か紺か見分けが難しかった。お客さまとわざわざ店の前の公園通りにでて見比べていた。とてもおおらかな時代だった。

WWD:堤さんはどんな仕事をしていたのか。

堤:“フロアマスター”と呼ばれるポジションに就いた。シード館は12フロアあり、各階のフロアマスターが仕入れ、売り場編集、什器選び、音楽の選曲、販売、販促まで全てを取り仕切ることになっていた。つまり一人一人がセレクトショップの経営者のように売り場を回す。よく言えば現場への権限移譲、別の言い方でいえば現場の若手の好き放題だったかもしれない。私を含めまだ20代の各階フロアマスターが、面白い売り場作りを競いあっていた。

今の渋谷西武の小林清店長(10月1日付で西武池袋本店の店長に異動)は、フロアマスター時代の後輩だ。シード館ではフロアマスターのライバルとして切磋琢磨してきた。彼はとても斬新な売り場を作っていたので、手のうちを聞いたり、ブランドを紹介してもらったりしていた。

WWD:堤さんが担当したのは、どんな売り場だったのか?

堤:私が最初に担当したのは「カプセル」と呼ばれた売り場。渋谷西武の伝説的な売り場と同じ名前ではあったが、直接は関係なく、インキュベートの役割に特化した売り場だった。独立したばかりのデザイナー、あるいは専門学校を卒業して服を作り始めたデザイナーなどの商品を販売していた。ブランドを発掘するのも大変で、デザイナーの紹介の紹介みたいなケースも珍しくなかった。インキュベートをうたうものの、今では考えられないくらい荒削りな売り場だった。

WWD:それが許容されるくらい自由だったと。

堤:それはそうかもしれない。その後、コンセプトの異なる別のフロアのフロアマスターを担当した。シード館では「シード バイ ケンショウ アベ」「シード バイ ジュンコ シマダ」など人気デザイナーと組んだ別注品を作っていた。当時こうした別注企画を著名なデザイナーが理解し、一緒に取り組んでくれたのはシード館だったからかもしれない。より個性的な服を求めるお客さまは確実にいる。特にシード館は芸能人などセレブリティが多かったため、通常商品以上に個性的なデザインをリクエストされた。

今井美樹さんがよく買い物に来られたのを覚えている。今井さんは背が高くモデルのような体形だったので、日本で売られている普通の洋服が合わないとおしゃっていた。パンツをよくリピートしてくださった。今井さんに限らず、シード館で買った服を着て雑誌に登場されたりすると、お客さまから問い合わせが殺到した。

クリエイターたちが交差する場所

WWD:シード館のスタッフたちも個性的だったと聞く。

堤:私のように百貨店から異動したメンバーもいれば、公募で外部から入社したメンバーもたくさんいた。とにかく新しいことにチャレンジするため、シードに共感する若い世代を採用した。デザイナーの卵、アクセサリーを作っている若者、夜はDJをやっている人――。さまざまな背景を持った人たちが販売だけでなく、運営や企画にもアイデアを出し合った。共通するのはファッションが大好きだということ。今思えば類を見ないほどユニークな人材の宝庫だった。多目的ホールのシードホールでは、のちに渋谷系として名を馳せる小山田圭吾さんが働いていた。

WWD:お客さんも含めて一種のコミュニティーのような場所か。

堤:コミュニティーといえば、シード館1階の「シーズバー」は、昼間はカフェ、夜はアルコールを出す店でクリエイターの溜まり場だった。コピーライター、デザイナー、フォトグラファー、編集者、モデルらが打ち合わせする光景が日常だった。糸井重里さんや浅葉克己さんらの姿をよく見かけた。シード館のスタッフも取引先との打ち合わせでよく利用し、サンプルを広げたりしていた。一般のお客さまも遠目でそうした光景を見ていた。シード館は服を売るだけでなく、ファッション業界の仕事の一部を垣間見れる不思議な空間だった。これも若者を惹きつけた理由の一つだろう。

売り込みも多かった。事前にアポを取ることなく売り場スタッフに直接サンプルを見てほしいと即席の商談申し込みがあった。よく館内で見かけるお客さまからある日、「シードのお客さんをずっと観察して、これだったら売れるという商品を作ってきたので見てほしい」と声をかけられた。感性豊かでとても説得力あるアクセサリーだったのでフロアマスターの裁量で展開することにした。このようにどこよりも速いアクションがシード(種)の発信につながった。その後、そのブランドは人気を得て大きく成長した。

WWD:世の中の景気も良かったし、服も売れていたから、若手が好きに挑戦できた?

堤:情報発信力はありメディアへの露出も多く感度の高い若者がこぞってやってきた。「百貨店ができないことをやろう」を合言葉に若手が挑戦できた。しかし当時はまだ商売のプロになりきれず、在庫も自分たちで抱えていたので、シードとして利益を出すところまではたどりつけなかった。大胆に挑戦できたのは百貨店本体がしっかり稼いでいたからでもあった。

WWD:渋谷西武はそんなに売れていたのか(西武渋谷店の1990年の売上高は、A館、B館、パーキング館、ロフト館、シード館の5館で967億円。直近の2025年は5館で約400億円)。

堤:渋谷西武は全国からお客さまが集まるのはもちろん、顧客基盤として東京の城南エリアを手堅く抑えていた。芸能人をはじめとしたセレブリティのお客さまが多い百貨店だった。究極のセレブリティがマイケル・ジャクソンだった。来日ツアーの際、閉店後の渋谷西武を2〜3時間、マイケルのために貸切にしたことがある。平日の平均的な売上高の半分をマイケル1人で買っていったことが伝説のように語り継がれている。

ある意味、渋谷西武はシードやロフトの存在はもちろん百貨店本体も従来の百貨店の域を超えた稀有な店だった。西武百貨店のプロトタイプは池袋本店だけれども、渋谷店はそれとは異なる独自路線を走ることが奨励された。今でもよく覚えているのが、1987年にラッパーのLL・クール・Jが来日した際、渋谷西武内の考えも及ばない場所にステージを作り、アーティストのライブを決行した。規制でがんじがらめの今では到底考えられないことをやってのけたいという情熱に当時はあふれていた。

川久保玲のショーウインドー

WWD:バブルが弾けると、過剰投資がたたってセゾングループは傾いた。堤清二氏は責任をとって会社を去った。

堤:その後の西武百貨店は赤字を解消すべく再建に向けて大きく舵が切られた。現場にはチェーンオペレーショが導入され、どの店でもお客さまが買いたい時に買いたい商品が買いたいだけ手に入るよう安定した供給と提供、サービスが求められるようになった。再建のためには必要な施策ではあった。しかし、今までとは異なる方向性に合わず店を去る者もいた。ファッションでは大手アパレルのブランドが安定的に売れるようになったがその頃から商品や販売も西武らしさが失われ、取引先主導に変わっていった。

WWD:なぜ渋谷西武は閉店に追い込まれたのか。

堤:渋谷西武として長期的なビジョンを示せなかったことが取引先の離脱を招いてしまったと思う。渋谷西武が5年後、10年後にどんな姿を目指すのか、開発が続く街でどのような役割を果たし、成長していくのか方向性を求められていた。にもかかわらず、そごう・西武は既存店の再建、経営体制の変更が続き、そうした将来あるべき姿を提示できなかったことは大きな要因の一つであった。多くのラグジュアリーブランドが他に移ってしまったことは当然だったのかもしれない。悔しい思いで一杯だ。

WWD:渋谷西武時代で印象に残っている出来事は?

堤:90年代後半にファッションコーディネーターの職についた。渋谷西武のファッション部門のディレクションを作成し、VP(ビジュアルプレゼンテーション)を指揮する仕事だ。A館のショーウィンドウは井の頭通りや公園通りに面した店の顔で、演出には特に気を張っていた。2〜3週間に一度、閉店後の夜8時過ぎに入れ替えを始め、翌朝の開店までに間に合わせるのは大切な仕事だった。

あるとき「コム デ ギャルソン」でウィンドーを飾ることになった。川久保怜さんは路上の人通りが少なくなった深夜にいらした。ギャルソンのチームがウィンドーを作る中、腕組みしながら厳しい表情で見つめていた。ディスプレーの配置数センチの違いに対して微に入り細に入り根気強く何度も修正を繰り返す。すると、そのわずかな違いでブランドの世界観が表情を変えて輝き出す。そんな瞬間に立ち合わせてもらい、気がつくと夜が明けていた。川久保さんの何かを生み出すための、一切の妥協がない姿には多くのことを学ばせてもらった。今でもウィンドーの前を通るたびに、あの一晩を思い出す。

そんなたくさんの気づきと経験をさせてくれた渋谷西武に改めて感謝したい。

COMME DES GARCONS x ビジネスの記事

関連タグの最新記事

最新号紹介

WWDJAPAN Weekly

サステナビリティ特集「循環は、日本から」 ファッション主要48社が答えた現在地【WWDBEAUTY付録:Jビューティ「2兆円」への道筋 世界市場をつかむ7つの打ち手】

「WWDJAPAN」9月28日号は、サステナビリティ特集「循環は、日本から」をお届けします。大量に作り、売り、捨てる——。そのリニア型のものづくりから、日本のファッション産業は循環型へと進めるのか。掛け声ではなく、データでその現在地を確かめました。

詳細/購入はこちら

CONNECT WITH US モーニングダイジェスト
最新の業界ニュースを毎朝解説

前日のダイジェスト、読むべき業界ニュースを記者が選定し、解説を添えて毎朝お届けします(月曜〜金曜の平日配信、祝日・年末年始を除く)。 記事のアクセスランキングや週刊誌「WWDJAPAN Weekly」最新号も確認できます。

ご登録いただくと弊社のプライバシーポリシーに同意したことになります。 This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.

メルマガ会員の登録が完了しました。