フォーカス

仕事が絶えないあの人の、“こうしてきたから、こうなった”山下慶子ディセンシア社長

 転職はもちろん、本業を持ちながら第二のキャリアを築くパラレルキャリアや副業も一般化し始め、働き方も多様化しています。だからこそ働き方に関する悩みや課題は、就職を控える学生のみならず、社会人になっても人それぞれに持っているはず。

 そこでこの連載では、他業界から転身して活躍するファッション&ビューティ業界人にインタビュー。今に至るまでの道のりやエピソードの中に、これからの働き方へのヒントがある(?)かもしれません。

 連載第9回目に登場するのは、敏感肌専門ブランド「ディセンシア(DECENCIA)」の山下慶子社長です。旅行代理店に就職したのち、商社などいくつかの企業に派遣社員として勤務。3社目の派遣先であったポーラ・オルビスグループの傘下である「ディセンシア」で正社員となり、11年後に代表取締社長に抜擢されました。「派遣先は自宅からの近さで決めました」「キャリア願望はゼロでしたね」——そう穏やかに語る山下社長のお仕事遍歴に耳を傾けました。

WWD:大学卒業後に中国への留学を経験されたのですね。

山下慶子氏(以下、山下):地元である九州の女子大学を卒業後、北京清華大学に語学留学をしています。周りには欧米のほかに華僑や北朝鮮からの学生もいました。育ってきた環境や価値観が異なる相手と先入観抜きでコミュニケーションをする中に、多くの学びと発見がありました。何よりも、「個」として自分や周囲と向き合える環境が楽しかったし、うれしかったですね。それまで生まれ育ってきた中で、日本人にありがちな同調意識にどこか閉塞感を感じていたんだと思います。留学当初の私は、中国語を全くしゃべれませんでした。けれど「周りの学生たちとなんとかして話したい」と思ったんです。そう思うと、めきめきと上達し始めました。目的が見えると飲み込みが早いんですね。仕事でもそうですが、物事を始めるときに「何のために?」という目的を明示することの大切さは、この留学時代から学んだように思います。

WWD:それからの進路はどのように?

山下:留学中に時間を共にしていたのは、大きな夢や具体的な志を持っていた仲間ばかりでした。私は在学中に心理学を専攻していたので、大学院に進むことも考えましたが、周りの学生と比べるとそこまでの明確なビジョンはなかった。いったん仕事に就いて自立しようと決め、約2年を経た2000年の夏に日本に戻りました。

けれどその頃はまさに、就職氷河期真っただ中。私は新卒でもなければ職歴もなくて、正社員での就職口はないに等しい状況でした。そんな中、当時はまだベンチャーだった大手旅行代理店の契約社員採用枠が目に留まり、「留学経験が生かせるかもれない」と応募してみることに。それが、地元である九州の営業所にエントリーしたつもりが、実際には関東の営業本部への応募でした。そのことに後から気が付きまして(笑)。上京するつもりはなかったけれど、「こんなご時世だし、ひとまず受けてみよう」と、面接を受けることに。ありがたいことに採用が決まり、営業チームの中でも中国人顧客向けのセクションに配属されました。上司や周りは中国人や台湾人など外国人ばかり。チケットを売るといっても、街でビラを配るというような宣伝ではなくて戦略的で合理的。プロフェッショナルとは?成果を出すとは?ということをとことんたたき込まれました。

WWD:なるほど。

山下:営業成績は良かったですし、お客さまに旅という充実した時間を提供するというその仕事にやりがいも感じていました。けれど4年が過ぎた頃、「チケットを売り続けること以外の人生を歩みたい」と思ったんです。同時に「自分の頭の中に浮かぶイメージを絵にしたい!」とクリエイティブな欲が発動しまして。帰宅してから朝4時までペンを持ち、翌朝9時に出社するという毎日を過ごすようになりました。すると、仕事よりも絵を描くほうが楽しくなってしまい、旅行会社を辞めることに決めました。

その後、商社やIT関連企業で派遣社員として実務経験を積みました。プライベートでは、留学時代の親友が帰国したことをきっかけにルームシェアを始めました。私以外の3人の住人がその後、音楽でメジャーデビューすることになり、それをきっかけにミュージシャンやデザイナーたちが日々集まってはお酒を飲み交わすような暮らしでした。家に帰ると、「私が一番フツーだなぁ」と思っていましたね(笑)。

WWD:プライベートを優先するため派遣社員という働き方を選んだのですね。

山下:はい、「定時って天国だなぁ!」と。ですから業界にこだわりはありませんでした。その後「ディセンシア」で派遣社員として働くようになったのも、家から近かったという理由からです。派遣会社にもよると思いますが、当時交通費は支給されなかったので自宅と会社の近さも重要なポイントでした。敏感肌に特化したスキンケアブランド「ディセンシア」の立ち上げメンバーとして携わることになりました。

目の前に来たボールは全て拾っていく

WWD:最初はどんなお仕事を?

山下:07年の1月に株式会社化した「ディセンシア」に、同月から勤務をスタートしました。ブランドは同年9月にデビューしています。研究員でもあった社長、ポーラから出向していた2名の社員と私という4人でのスタートでした。決まっていたのは「敏感肌の全ての人を幸せにする」というビジョンと、「フェイスクリームとボディークリームの2アイテムでデビューする」ということ。私は研究発表用のポスターなどの印刷をすることもあれば、今後の出店のために他ブランドの店舗リサーチをしてまとめることも。徐々に「山下さんの意見も聞きたいのでミーティングに入ってください」と声がかかるようになりました。派遣社員として4カ月間働き、その後正社員となりました。

WWD:業務範囲が広がり、社員になることに抵抗はなかったのでしょうか。

山下:仕事に携わっていくうちに、「ブランドの創業から関わり試行錯誤しながら前に進む、そしてそれがマーケットに発信されてお客さまのもとに届く——それってすごくクリエイティブだ!」と感じ始めていました。

同時にこの頃から「肌が荒れることで女性がどういう気持ちになるのか」「それがもし多感な時期であれば人格形成にどのように作用するのか」といったことをとことん考えるようになりました。成分などのスペックの価値だけではなくて、提供する全ての価値によって人生に寄り添えるようなブランドでありたい——そう強く思うようになっていました。

WWD:スタートアップで少数のチーム。やることは山積みだったのでは?

山下:私自身は目の前に来たボールは、全て拾っていくというスタンスでした。とりあえずやってみて、走りながら考えてもなんとかなる、という経験を重ねてきました。しかし、未熟で経験が不足していたことで判断力が追いつかず、悩む時間が多かったですね。リーフレット作成の際に初めて“校正”という行為をしましたし、撮影の段取りが分からないときには広告代理店の方にこっそりアドバイスを仰いだり。3年ぐらいは、壁にぶつかって学んでいくという日々でした。

WWD:苦労を重ねながらも無事ブランドデビューを迎えたのですね。

山下:はい。とはいえ、当初の売り上げは微々たるもので。私たちが思い描いていたことはうまくいかず、「この事業に未来はあるのかな」という不安にメンバー全員が苛まれながら、日々の膨大な業務をしなくてはならない。まるで、小舟が大海に浮いているように不安定な状態だったと思います。

一番つらかったのは、「山下さんにブランディングを任せたい」と言われたとき。どこから手を付けていいのか見当がつきませんでした。社外からしてみたら、私が「ディセンシア」の担当なのにその場でジャッジができない。社内のチームも、一枚岩になっていないので主観の意見が乱立する。担当としてこの先どうやって先に進めばいいのか、と途方に暮れました。今でこそ冷静に分析できますが、「『ディセンシア』って誰のためのもの?」「どういう風に付加価値を差別化するの?」という方向性がバラバラだったからなんですよね。だからこそ、「ディセンシア」にしかない力強いコンセプトを決めなくてはならないのに、なかなか進まない……。08年ごろですかね。

WWD:その状況をどのように打開されたのでしょうか。

山下:正直、もう辞めたかったんです。これ以上は私の力が及ばない——そう思っていたら、2代目の「ディセンシア」社長として小林(小林琢磨・現オルビス社長)が異動してきました。体制が変わったと同時に、「ディセンシア」は商品の差別化軸でいく、というこの先の方針が一気に決まりました。自分たちの“現在地”はここで、これからどうすべきか、ということをロードマップとして示してもらえたんですね。やがて私はCRM(顧客関係管理)の専属として、既存のお客さまのマーケティングを担当するようになりました。業務も多く残業もありましたが、明確な目標が見えたことで、精神的にはそれまでよりずっと楽でしたね。

WWD:手応えを感じたのはいつ頃でしょう?

山下:14年に黒字化をして以降、ずっと売り上げが伸びています。ありがたいですし、うれしいことなのですが手放しで喜べないんです。前年比200%で伸びていたときも、です。それには、創業当時の苦労が大きかったこともありますが、代わりのブランドは他にもいくらでもある、という緊張感は常にありますね。変化しないほうが怖いですし、「明日じゃなくて今やろう!」というストイックさは社風としてもあるかもしれません。

WWD:18年に社⻑になられました。ポーラ・オルビスグループで派遣社員から社長への抜擢は初だったと聞いています。そのときのお気持ちを教えてください。

山下:「マジか!」と(笑)。すぐに「ありがたいことだ」思い直しましたが、「自分は現場の人間だ」という気持ちが強かったように思います。当時の私はCRM統括部長をしながら、ビジュアルなどのクリエティブにも関わっていました。“人もお金も”という経営の器ではない——そう感じていました。けれども、「キャリア志向ではなかった私のようなロールモデルが出ることは、後に続く人の参考になるかもしれない」と。「やってみてダメなら、『ダメでした』と言えばいい」と、いただいたチャンスに腹をくくることにしました。

WWD:「ディセンシア」のプレステージライン「ディセンシー(DECENCY)」が昨秋デビューしました。

山下:伊勢丹新宿本店リニューアルのタイミングで出店をしましたが、好調なスタートを切ることができました。付加価値の高い敏感肌ブランドということで、滑り出しは好調ですね。お正月にECで発売したエントリーキット(1万6000円)は、販売計画数が早々に完売し、急きょ追加販売をしました。実際に手で試すことができない通販、なおかつ初めて使う商品で1万円を超える価格というのはハードルが高いと思うんです。それでもたくさんの方が期待感を持ってご注文いただけたということは、一つの自信になりました。

WWD:業種や立場が変わっていく中でも変わらずに大切にしているルールはありますか?

山下:「この組織で上を目指すぞ!」というよりも、「自分はどうしたら役に立てるんだろう?」という視点はずっと変わらないですね。これまでに派遣社員も部長も経験していますから、いろいろな立場を理解できると自負しています。そのときの気持ちを忘れちゃいけないと、経営者となった今ますます感じていますし、役割としての社長をやっているだけだと割り切るようにしています。

そしてもう一つ大切にしているのは、多様性に対しての耐性です。留学やいろいろな場所で仕事をしてきたことで、“自分の常識は常識じゃない”ということを身をもって学べたように思います。

アフターコロナの世界をポジティブに描く

WWD:山下社長にとっての「仕事」とは?

山下:社会で生きていく上での“役割”ですね。とはいえ、役割や社会の前提というのは時代ごとに変わっていくと思うんです。感度を高く保ちながら、仕事を通して社会に貢献できたらと考えています。社会の前提が変化する、という意味では新型コロナウイルスもそうですよね。今は、これまでの価値観が大きく変わる転換点だと感じています。確かにつらく不安な状況ではあるけれど、このことを“引き金”として、持続的な経済や働き方を強制的に突き詰める機会になったと捉えています。在宅勤務の期間は皆が等しくリモートですから、時短で働く女性社員も遠慮がいらないわけです。スタッフの待遇や働き方など、より良い方向へと加速できるチャンスとしたいですね。

スキンケアということにつなげると 、敏感肌ってストレスや女性のライフイベントにも大きく関わっているんですよね。敏感肌を見つめることは、今の社会を見つめることだと考えています。すると「今後のサステナブルな女性の働き方って?」「アフターコロナの新たな敏感肌悩みって何だろう?」と、課題が浮かび上がってきます。

この先は、デジタル上でのお客さまとのつながりをより強化したいと考えています。実は去年から、お客さまと私が一対一で行う「100人インタビュー」という取り組みを始めています。エリアで区切り、これまで累計27人のお客さまと直接お話をしてきました。けれど今はこのような状況ですので、オンラインでチャレンジしています。沖縄から北海道まで、物理的な距離を超えてお客さまとコミュニケーションできる貴重な機会です。

WWD:最後に、キャリアチェンジを考えている人、そしてコロナ禍で苦境に立たされている人にエールをお願いいたします

山下:何歳であっても自分の可能性は“ここまで”と決め付けずに、チャレンジにワクワクしてほしいなと思います。私もこれからまたキャリアが変わるかもしれません(笑)。若いうちであれば、たくさんの人に会い、その中で出会った人の良いところはまねをして、悪いところは反面教師にして。その全てが学びになると思います。私個人の人生を振り返ると、どの会社に入るかということよりも、誰と出会って仕事をするのかの方が大きかったように思います。

コロナの影響で今は、「前に進みたくても進めない」「時間だけがあって不安」という気持ちもあると思うんです。けれどインプットに思い切り使うことのできる貴重な時間です。この状況を客観的に捉えながら前向きに過ごせるといいですよね。究極、生きているだけで丸もうけですから!