
PROFILE: 松井里加/メイクアップアーティスト
モード誌や、ランウエイ、ブランドのキービジュアルなどの最前線で美を構築するヘア&メイクアップアーティストたち。彼ら・彼女らはいかにして感性を磨き、現在のポジションを築き上げたのか——。第一線で活躍するトップクリエイターのキャリアと美学に迫る新連載「美を紡ぐ人のキャリア論」がスタート。
第1回は、国内外のモード誌やバックステージで活躍し、スキンケアブランド「セラリー(SELALY)」を手掛ける松井里加さん。ファッション専門の長寿番組「ファッション通信」に胸を躍らせた学生時代から、単身で飛び込んだニューヨークでの過酷な下積み生活、日本を代表するメイクアップアーティスト・吉川康雄さんとの出会い、そして憧れのパリコレクションへ。
数々の挫折と葛藤を乗り越え、自身のスタイルを確立するまでの軌跡と、ものづくりへの思いを聞いた。
原点はパリコレへの憧れ
スタイリスト志望からメイクの世界へ
WWD:メイクアップアーティストを目指したきっかけを教えてください。
松井里加(以下、松井):とにかくファッションが大好きで、高校生のときに一番感動したのがパリ・コレクション(以下、パリコレ)でした。「ファッション通信」で、ファッションジャーナリストの大内順子さんが取材する姿を夢中で見ていました。「この世界に行きたい」「ファッションショーに関わる仕事がしたい」と強く憧れて、スタイリストを目指して文化服装学院に進学しました。
WWD:最初はスタイリスト志望だったんですね。
松井:自由な校風の高校に通っていたので、髪型やメイクでおしゃれをするのは好きでした。でも、当時はまだ「メイクアップアーティスト」という職業をよく知らなくて、ファッションの世界の裏方といえばスタイリストだと思っていました。地元の奈良県から、単身赴任中だった父の千葉の家に身を寄せて、通学していました。
WWD:文化服装学院での学生生活はどうでしたか?
松井:不器用だったので、とにかく縫うことが苦手で(笑)。課題を実家に送って、祖母と母に代わりに縫ってもらっていたぐらいです。先生からは「スタイリストになりたいなら、裁縫ができないとなれないよ」とよく言われていたので、次第に難しさを感じるようになりました。
WWD:そこからなぜメイクの道へ?
松井:学校で行われるファッションショーのヘアメイクを担当したことが転機になりました。当時は雑誌全盛期で、コスメブランド「ケサランパサラン(KESALANPATHARAN)」を手掛けていたヘアメイクアップアーティストの渡辺サブロオさんが大活躍されていた時代。お小遣いを貯めてはコスメを買い集めるほど夢中になり、サブロオさんが主宰するメイクスクールに通うことを決めました。昼は文化服装学院、夜はメイクスクールというダブルスクール生活の始まりです。
WWD:卒業後の進路はどのように?
松井:アパレルへの就職も考えましたが、思うような就職先が見つからず。通っていたサブロオさんのヘアサロン「サッシュ(SASHU)」に声をかけていただき、働くことになりました。レセプションやメイクを担当して、約6年働きました。
バックステージで大失敗
NYでのアシスタント生活がスタート
WWD:「サッシュ」を離れることにしたのはなぜですか。
松井:お客さまにメイクをしたり、撮影でサブロウさんのアシスタントにつかせてもらったりと、充実した日々でした。けれど、もっともっとファッションに関わりたいという思いが消えなかったんです。
WWD:それでニューヨーク行きを決意されたということですね。
松井:憧れはパリコレでしたが、学生時代にフランス語で挫折していて(笑)。ニューヨークには先輩が1人いたことと、ヨーロッパのモード誌もニューヨークで撮影することが多いと聞いて、渡米を決めました。
ニューヨーク行きを店長に相談したところ、「サッシュ」に通う国内外で活躍するトップクリエイターの方々を紹介してくださって。そこで初めて「ブック(作品集)」の重要性を教えてもらいました。「作品を見せることができなければ、メイクアップアーティストは名乗れない」と。アシスタントを紹介してもらったり、手伝ってもらったりして、初めてブックを作りました。
WWD:渡米当初の生活はいかがでしたか?
松井:最初は1年ほどの語学留学のつもりでした。「モード誌の撮影現場が見れたらいいな」くらいの気持ちだったんです。けれど、ヘアスタイリストのKENSHINさんをはじめ、同じ志を持つ仲間と出会い、作品撮りに没頭するうちに「もっとここにいたい」と思うようになって。ビューティはアイデア次第でいくらでも面白いものが作れるので、誰にも真似できない作品を作ることに燃えていました。結果的に6年ほどニューヨークにいることになったのですが、そこからが苦労の連続でした。
WWD:2年目からの生活は?
松井:あるときニューヨーク・コレクションのバックステージに入る機会を得たのですが、1つのアイシャドウをチーム全員で共有していた現場で、端の席にいた私は手元にあった似た色の私物を使ってしまったんです。仕上がりをチェックするタイミングで、わずかにパールが入っていることを指摘され、そのあとは一切メイクをさせてもらえませんでした。予定していたショーでのメイクが全てキャンセルになったんです。1回のミスで、全てを失う厳しさを痛感して、一からきちんとアシスタントを経験しようと心に決めました。
WWD:それで吉川康雄さんのアシスタントになったんですね。
松井さん:色々な事務所にブックを見せに行きました。そのときに吉川さんに、「アイデアはあるけれど、それだけだね」って言われたんです。自分なりに面白い作品をノリノリで作っていたので、ショックでした。けれども「僕のアシスタントをしたらどんな人の元でも働けるよ」って言ってもらって、頑張ることに決めました。
WWD:初めてのアシスタント経験はどんな毎日でしたか。
松井:吉川さんのメイクは目から鱗の連続でした。それまでの私のメイクとは一切違います。モデル自身の肌が呼吸しているかのような、生きた質感を作り出す。肌そのものの美しさを引き出すメイクの神髄を学びました。
モデルの肌の色に合わせるために、50色ものファンデーションを持ち歩く世界を初めて知りましたね。早朝からアシスタントの仕事をして、夕方から語学学校、その後は深夜までバイト。とにかく過酷な毎日でした。
念願のパリコレ、そして独立
「自分のスタイル」をつかむまでの葛藤
WWD:念願のパリコレにはどのようにたどりついたのですか?
松井:吉川さんに加えて色々な方のアシスタントについて、最終的に多くのメゾンのショーのメイクを手掛けるアーティストのアシスタントになりました。それでニューヨーク生活4年目にして、ついにパリコレへ。
私の最初の仕事は、パリとミラノに向けてメイク道具が詰まった、びっくりするぐらい重いスーツケースを合計100個発送することでした。部屋が黒いスーツケースの海で、とにかくさばかないとと必死でした。
WWD:行く前から強烈な洗礼を受けたんですね。
松井:現地入りしてからも、忙しなくて。日中はショー本番、夜はメイクテストの連続です。100パターンものメイク案を出してと言われることもありました。初めてだから何がなんだか訳が分からないまま、とにかく乗り切るという感じでした。
けれども、あのときのメイクは今でも忘れられません。憧れていた世界で、直接デザイナーにも会うことができて、本当にうれしかったです。
WWD:過酷な中にも、喜びがあったと。
松井:ミラノで名だたるメゾンのショーのバックステージを終えてパリに移動してから、日本人デザイナーが手掛けるブランドのショーにも入りました。そこでは日本人デザイナーの服がこんなにもパリで映えるんだと感動!朝も夜も働き続けて、ボロボロだったけれど、新しい美に出合ってモチベーションが上がりました。ニューヨークに戻るぐらいのタイミングで、ビザが取れて、生活に少しだけゆとりが出るようになりました。
WWD:その後はどのようなキャリアを?
松井:数シーズンにわたってコレクションに携わり、ファーストアシスタントのオファーもいただきました。ですが、「このままチームに残るのか、自分のメイクを極めるのか」を考えたとき、後者を選びました。ニューヨーク生活の最後の1年半は現地の事務所に所属し、独り立ちして仕事を始めました。
WWD:日本へ帰国を決めた理由は?
松井:正直に言うと、ビザの取得のためになんでも良いからその事務所に入ったみたいなところもあったんです。入ってくるのは、商業的なライフスタイル系の仕事ばかりで。自分が本当にやりたかったモードの現場とのギャップに悩んでいました。そんなとき、先に帰国していた友人から「日本にも素晴らしいクリエイターがたくさんいる」と聞き、一時帰国してブックを持って回りました。
WWD:日本の業界の方からの反応はいかがでしたか?
松井:サブロオさんにも見てもらったのですが、「まだメイクをしている松井が見える」と厳しい言葉をいただきました。「そのモデルが輝くようにしてほしいのに、まだ頑張ってメイクしている君が見える」と。
ブックにはかなり奇抜な作品を並べていたので、色々な事務所を回りましたが、反応はイマイチでした。そこで反省してニューヨークに帰ってからは、「その人が持つ本質的な美しさをどう引き出すか」「どんな女性像を表現したいのか」を徹底的に突き詰めて、作品撮りを繰り返しました。次第に表現が洗練されてきて、再度ブックを持って日本へ。現在の事務所への所属が決まり、完全に帰国しました。
メイクを輝かせるための素肌をつくる
スキンケアブランド「セラリー」に込めた思い
WWD:帰国後は日本を拠点にグローバルに活躍されていますね。
松井:ありがたいことに人気フォトグラファーからの指名をいただき、順調にキャリアを広げることができました。ニューヨークで培ったすさまじい経験のすべてが、東京での仕事につながっていると感じています。年に何回かは海外での仕事もあって、グローバルに働くことができるのはとてもうれしくて。行く度に勉強になるし、新しい学びがあります。
WWD:2022年にはご自身のスキンケアブランド「セラリー」を立ち上げました。
松井:化粧品メーカーのアドバイザーをさせていただいて、商品作りを学ぶ機会がありました。そのときにメイクアップアーティストとしての経験を活かして、プロダクトを作るお手伝いをするのもいいなと思ったんです。それが次第に、自分で作るのもありだなと。
忙しさでなかなか実現できていなかったのですが、コロナ禍で時間に余裕ができたこともあって、「セラリー」を立ち上げました。メイクで輝くためには、まず土台が大切。素肌をきれいに整えて自信を持って欲しいという思いを込めて洗顔とクレンジングからスタートしました。地元の奈良県にハーブのエキスを自分で採りに行ったり、天然精油にこだわったり、大手メーカーではできないであろうことを一生懸命やっています。
WWD:「セラリー」を手掛ける上で心掛けていることはありますか。
松井:お客さまと直接会うことを大切にしています。定期的にポップアップを開催して、体験してもらえるように心掛けています。1つ1つの商品に思い入れがあって、どうしても開発期間がかかってしまうので、新製品をたくさん出すことはできないけれど、密にコミュニケーションをとりながら、コアなファンの方に愛してもらえたらと思います。
WWD:松井さんにとって「メイク」と「セラリー」はそれぞれどのような存在ですか。
松井:本業であるメイクは私の絶対的な軸で、譲れないモットーです。10代の頃から大好きなファッションの空気感やランウエイのムードを捉えて、メイクに落とし込んでいく仕事は一生のライフワークです。
対して、「セラリー」は松井里加がお届けする、エンターテインメントと言ったら良いかもしれません。ものづくりを通じてメーカーの方と議論を重ねたり、ポップアップでお客さまと直接お話ししたり。メイクの現場だけでは出会えなかった人たちとのつながりは、人生を豊かにしてくれています。
WWD:今後の展望を教えてください。
松井:語学力を活かしたグローバルな仕事は好きなので、大事にしていきたいですね。直近でも海外から東京で行われるショーをうちのチームで手掛けます。また、世界を舞台に活動する女優さんをメイクでサポートしたいですね。
「セラリー」は、3年かけて開発した新製品を来年発売することができそうです。実はアメリカでも販売を始めているので、ブランドでも海外進出を頑張っていきたいです。
WWD:メイクアップアーティストを目指す次世代の若者にメッセージをください。
松井:「海外に行きたい」という思いがあるなら、迷わずに飛び込んでみてほしいです。大変だったことも全部よかったと思える日が来ます。今は情報があふれていますが、肌で感じた緊張感や悔しさといった“実体験”に勝るものはありません。
私自身、日本とは全く違う生活に金銭面や体調面で苦しんだ時期もありましたし、決して楽な道ではありませんでした。でも、アジア人だけでなく多様な骨格や肌に触れ、がむしゃらに乗り越えた経験がすべて今につながっています。同じように夢を持つ仲間との出会いも、きっと大切な糧になるはずです。
現場の必需品「My Essentials」
現場で身につけているエプロンは、自分で使いやすさを設計して叔母に仕立ててもらった特注品です。筆やツールの配置をミリ単位で改良し続けていて、リムーバーシートでさっと拭き取れる素材にしています。ポケットには、どんな現場でも欠かせないコンシーラーとパウダー、リップバームを常に常備しています!
「セラリー」とは?
「セラリー」は古来から日本女性に寄り添ってきた神秘のハーブで、奈良県の山口農園産の大和当帰をメインに、柿の葉、よもぎ、甘茶を配合。パラベン・シリコン・合成香料・合成着色料・硫酸系界面活性剤フリーとクリーンな処方もこだわり。さらにフィトテラピーの第一人者である森田敦子氏によるブレンド精油を配合し、使うたび心を和らげてくれる香りも特長だ。