子どもの頃にはわからなかった家族の言動が、大人になって振り返ると違う意味を持ち始める。けれど、今なら理解できることがあっても、過去を変えることはできない。10月23日に公開された映画「Blue Heron/ブルーヘロン」は、少女サーシャのひと夏と大人になった彼女の現在を通して、家族の記憶を見つめ直す物語だ。
1990年代後半、家族とカナダ・バンクーバー島に移り住んだ8歳の少女サーシャ。兄ジェレミーは周囲を困らせる行動を繰り返し、両親は追い詰められていくが、幼い彼女にはその理由がわからない。20年後、映画監督となったサーシャは記録や証言を手がかりにあの夏をたどり直し、当時は見えなかった家族の姿に触れていく——。
メガホンをとるのはカナダの新鋭ソフィー・ロムヴァリ。約10年にわたる短編制作で探求してきた家族の記憶や喪失というテーマを、自身と家族の実体験をもとにした長編デビュー作に結実させた。個人的な記憶を観客の心に響く物語へと昇華する繊細な演出と、現実とフィクションの境界を越える大胆な構成が高く評価され、トロント国際映画祭で最優秀カナダ映画新人賞を受賞したほか、批評家のレビューを集約する「Metacritc」では2026年上半期の映画ランキング首位を獲得するなど、国際的な注目を集める一本だ。
現実とフィクションを織り交ぜた物語から浮かび上がるのは、社会が引く「正常」と「異常」の境界や、大切な人を理解し、支えようとすることの難しさ。記憶をたどる独特の構成から、親密さと距離を同時に感じさせる映像、ラストシーンに訪れた思いがけない瞬間まで、ロムヴァリ監督に話を聞いた。
実体験をもとにした長編デビュー作
——ご自身やご家族の実体験をもとにした長編デビュー作で、どのようなことを描きたいと考えたのでしょうか
ソフィー・ロムヴァリ(以下、ロムヴァリ):幼少期の記憶が大人になってからもどのような影響を与えるのかを描きたかったんです。一人の人物を子ども時代から大人になるまで描き、過去が現在にどう影響しているのかを視覚的に探る上で、映画という表現は適していると考えました。ただ、この映画は私自身や家族の経験に基づいていますが、実際にあったひと夏をそのまま描いているわけではありません。私の人生におけるさまざまな経験をもとにしていて、完全にフィクションの部分もある。あくまでサーシャの人生のひと夏を描いているんです。
夏は成長物語の舞台としてとても典型的ですよね。観客はこれまでにも観たことのある夏を舞台にした成長ドラマを観ているつもりでいる。ところが途中で物語は一気に現在へと飛び、そのジャンルから離れていく。そんなふうに観客の期待を揺さぶるアイデアが気に入ったんです。
——幼いサーシャには不可解だった両親の言動も、大人になって振り返ると違う意味を持ってきます。過去と現在を描く構成には、成長とともに家族への理解が変わっていく過程を見せる意図もあったのでしょうか。
ロムヴァリ:はい。子どもと大人の視点の違いはとても重要な要素でした。最初は幼いサーシャの限られた視点から物事を見ていますが、大人になった彼女は当時知りえなかった情報で空白を埋めていく。なぜ両親があのような決断をしたのかがわかり始めるんです。
子どもの頃は親に頼って過ごしていますが、親が自分を守るために下す決断の理由を必ずしも理解できるわけではありません。例えばサーシャの母親が友達を家に呼んでほしくないと言うのは、他人からどう見られるかが怖いからです。でもそのときのサーシャにはそうした怖さがない。大人になるにつれて世の中の仕組みがわかってくるんです。そうした子どもと大人の視点の違いとともに、無垢さが失われていくことも描きたかったんです。
——母親が隣人からどう見られているかを気にする様子もありましたが、彼女は子どもにはまだ見えていない社会の視線を背負っているようにも感じます。大人になるということは、そうした社会の価値観を意識するようになることなのかもしれませんね。
ロムヴァリ:この映画に中心となるメッセージがあるとすれば、まさにそのことだと思います。社会は人に一定の振る舞いを期待し、そこから外れる人がいると、何か解決策を見つけなければならないと考える。でも、人は「解決」すべきものではありません。劇中でも専門家たちが集まって問題を解決しようとしますが、答えは見つかりません。社会の期待に沿わない人がいるからといって、そこに必ずしも明確な解決策があるわけではないんです。
子どもの頃にはそういう意識がなく、家族の誰かがある振る舞いをしていれば、それが自分にとっての「普通」になる。大人になって初めて「正常」と「異常」を分けて考えるようになるんです。そして結局は、どれだけ社会に貢献できるかということだけを基準に「正常」を判断している。社会に貢献できない人は「正常ではない」とされ、何かの枠に当てはめられたり、薬を処方されたりする。もちろん、メンタルヘルスや精神疾患についてもっと理解を深める必要はあります。ただ、私たちは解決できるはずだと期待してしまうけれど、必ずしもそうではないんです。
「手を伸ばせばつかめそうなのに届かないという感覚」
——ガラス越しに人物を捉えたり、静かにズームで寄るショットが印象的に使われていましたね。最初は大人のサーシャが過去の自分を観察する視線なのかと思いましたが、現代の場面でも同じ手法が使われています。これはつまり、特定の人物の視点というより、映画全体を通して人物との距離を意識した撮り方なのでしょうか。
ロムヴァリ:おっしゃる通り、親密さと距離を同時に感じさせたかったんです。ズームレンズを使うことで、普段なら見ることのできないものに近づけるけれど、実際にはとても遠くにいる。手を伸ばせばつかめそうなのに届かないという感覚が、この映画のテーマに映像表現としても感情の面でも合っていると思いました。
撮影上の理由もあります。カメラをできるだけ俳優から離しておくと、演技に自由が生まれるんです。特に子どもたちは、目の前のカメラを意識せずに演じることができますから。これは(映画監督の)ジョン・カサヴェテスの手法から取り入れたことでもあり、彼は俳優がより自然に振る舞える環境をつくるために、カメラとの距離を保つことについてよく語っていました。
父が撮ったホームビデオにも影響を受けています。父は私たちがしていることを邪魔せず、ただ記録するために、遠くから窓越しや戸口越しに撮っていたんです。その撮り方もこの映画に取り入れました。この選択にはいくつもの理由がありますが、美的な面では、親密さと距離を置いて観察することの間にある緊張感を生み出しているのだと思います。
——ジェレミーが何を抱えているのかは診断名などでは説明されない一方、彼の内面に触れる手がかりとして地図が登場します。彼が描く地図には、どのような意味を込めたのでしょうか。
ロムヴァリ:地図は彼の内面世界に触れるための手段ですが、そこに入ってもやはり戸惑いが残る。描かれているのは実在する場所ではなく、完全に架空の場所だからです。
この地図は実際に私の兄が描いたものです。ここでも現実とフィクションを混ぜ合わせようとしていますが、だからといって何か確かな答えが得られるわけではありません。私にとって地図は美しく、そこに描かれた場所が存在しないという意味でも唯一無二のものなんです。
これはモデルとなった実在の人物ではなく、映画の登場人物としてのジェレミーについての話ですが、彼もまた存在していないのかもしれない、すでに幽霊のような存在なのかもしれないと考えることができます。サーシャはもう触れることのできない誰かを思い出そうとしているのですから。地図はそのことを表す、とてもシンプルで視覚的にも明快なメタファーだと感じました。だから、映画に取り入れないことは考えられませんでした。
理解することとケアすること
——両親を始めとする周囲の人々はジェレミーを理解しきれなくても、彼を支えようとします。理解することとケアすることは、必ずしも同じではないという考えがあったのでしょうか。
ロムヴァリ:そうですね。この映画に出演し、コンサルタントとしても参加してくれたソーシャルワーカーの一人が、上映後のQ&Aで心に残ることを言っていました。「愛も、ときには疲れてしまう」と。
家族も周囲の人々もジェレミーを見放すことはありません。でも、見放さずにいるからといって、その人の人生がどんな結末を迎えるかまでコントロールできるとは限らないんです。長い時間をかけてケアし、関わり続けることは、その人が「自分は大切な存在なのだ」と感じる上で大きな違いを生むと思います。ただ、どう生きるかは最終的に本人に委ねられている。私が自己決定と言っているのはそういうことで、大人は自分の人生をどう生きるかを自分で決めるのですから。
誰かを深く大切に思っていても、その人が周囲には理解しがたい選択をすることはあります。それが自己破壊的だったり、命に関わったり、自分を傷つけるものだったりする。そこに多くの人がもどかしさを感じるのだと思います。どれほど相手を大切に思っていても、その人が自分で選んだ生き方の結末を変えることはできないんです。
——制作にあたってメンタルヘルスや社会制度についてのリサーチも重ねられたそうですね。ジェレミーのように必要なケアにつながれない人や、その家族を孤立させないために社会には何が必要なのか。映画を作る中で見えてきたことはありますか。
ロムヴァリ:自分に答えがあるとは言えません。この映画を公開して最も強く心を動かされ、同時に胸が痛んだのは、世界中でこの物語に共感する人たちに出会ったことでした。家族にジェレミーのような人がいるという方も、自分自身を彼に重ねる方もたくさんいました。中には必要なケアを受けることができ、支援の網の目からこぼれ落ちずに済んだことに感謝している方もいましたが、だからといって私に解決策があるとは言えません。
この映画にできることがあるとすれば、同じような経験をしている人たちに「自分は一人ではない」と少しでも感じてもらうことなのかもしれません。それがジェレミーや両親のような立場にいる人たちの感じる偏見や烙印の重みを、ほんの少しでも軽くすることにつながればと思います。
こうした経験をしている人はとても多いのですが、恥だと感じて口にできずにいるんです。もっと語り合い、決して珍しい経験ではないと理解されるようになれば、偏見を恐れずに必要なケアを受けられる人も増えるのかもしれません。
「理解しようと努めながら前に進む」
——大人のサーシャが過去に戻り、両親に語りかける場面には、「今の自分なら、不安を抱える両親に何ができるだろう」という祈りのようなものを感じました。その後、幼い自分や兄とも再会するあの一連の場面もとにかく素晴らしく、とても心に残っています。
ロムヴァリ:サーシャが両親と向かい合っているとき、観客は彼女が大人になった娘だとわかっています。でも両親には、目の前の彼女が誰なのかわからない。そこに時間の隔たりを感じさせたかったんです。
おっしゃるように、できることなら自分の知っていることを伝えて、両親が苦しまずに済むようにしてあげたいという願いが彼女の中にはあります。何をしても同じ結末になるのだと、わかってもらいたいんです。でも未来で得た知識を過去に持ち込むことはできません。それは人間というものの欠点なのかもしれませんね。私たちはすべてを経験しなければ未来にたどり着けない。あの場面は、それでも何とかしようとする切実な試みなんです。それができるのは映画の中だけで、現実ではありません。だからこそ私にとってフィクションを用いることがとても重要でした。最後に彼女は冒頭と同じように一人になり、過去は変えられないという事実を受け入れなければならなくなります。
幼い自分と出会う場面でも、彼女は未来の情報を伝えるわけではなく、ただその姿を見つめている。そして2人の間だけで何かが交わされます。過去に触れることはできても、それを変える力までは与えられない。そのアイデアが気に入っていましたし、世の中のあり方を最も誠実に表していると感じました。たとえ機会があったとしても、過去を変えることが正しいとは思いません。私たちは起きたことを受け入れ、そこから学ぼうとしなければならない。理解しようと努めながら前に進むことで、よりよい自分になっていけるのだと思います。
——ラストシーンで、海の向こうに灯台の光が微かに灯りますよね。とても素敵な演出でしたが、あれは狙い通りに撮ったものなのでしょうか。
ロムヴァリ:実はあれは灯台ではなく、偶然、空に映り込んだ光なんです。人工衛星なのか、彗星なのか、星なのか、今でも正体はわかりません。タイミングがあまりにも完璧で、後から加えたように見えますが、まったく自然に起きたことでした。宇宙がこの映画にくれた贈り物のようで、本当に魔法のような瞬間だったんです。
撮影中は誰もその光が映っていることに気づかず、編集しているときに初めて小さなきらめきを見つけました。それがちょうどジェレミーが消える瞬間に現れている。正体はわかりませんが、この映画の中でも特に好きな瞬間の一つです。
「Blue Heron/ブルーヘロン」
◾️「Blue Heron/ブルーヘロン」
10月23日からBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネマリスほか全国順次公開
出演:エイリュル・ギュヴェン、イリンゴー・レーティ、アーダーム・トンパ、エディク・ベドーズ、エイミー・ジマー
監督・脚本:ソフィー・ロムヴァリ
撮影:マヤ・バンコヴィッチ
編集:カート・ウォーカー
2025年|カナダ、ハンガリー|カラー|1.66:1|91分|英語、ハンガリー語|原題:Blue Heron 映倫:G
提供:キングレコード
配給:プンクテ
©️2025 NINE BEHIND PRODUCTIONS LTD. BODDAH RIOTFILM KFT.
https://www.punkte00.com/blueheron/





