PROFILE: 塚本晋也/映画監督

世界に衝撃を与えた劇場映画デビュー作「鉄男」(1989)を皮切りに、肉体の変容や暴力、人間の内側に潜む衝動を独自の映像言語で描き、国内外で高い評価を受けてきた映画監督・塚本晋也。近年、その関心は戦争によって人間の身体と精神に何が起こるのかという問題へ、より直接的に向けられている。
第二次世界大戦末期のフィリピン戦線で極限状態に陥る兵士を描く「野火」(2014)、幕末を舞台に人を斬ることのできない浪人を描いた「斬、」(18)、戦争直後を生きる人々の傷を見つめた「ほかげ」(23)。塚本監督がそこで映し出してきたのは、国家の勝敗や英雄の物語ではなく、戦争によって人間がいかに変えられ、壊され、痛みを抱えて生きていくのかということだった。そして、そのひとつの到達点とも言えるのが、9月11日より公開の映画「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」である。
原作は、貧困から抜け出すために18歳で海兵隊に志願したベトナム帰還兵アレン・ネルソンが、加害者の視点から軍隊と戦場の現実、そして帰還後の人生を蝕んだPTSDについて綴った自伝『「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」』(講談社文庫)。帰還後、ネルソンは自らの戦争体験を語る反戦活動を続け、日本各地でも数多くの講演を行った。沖縄の米軍基地問題にも深く関わり、憲法9条の理念を訴え続けた人物でもある。塚本はこの自伝に加え、ネルソンが抱えた戦争トラウマと、カウンセリングを通じて自らの加害と向き合っていく過程を記録した書籍「戦場で心が壊れて 元海兵隊員の証言」も参照しながら、その人生を映画として再構成した。
戦争へ向かう社会への危機感から「野火」を映画化した2015年から、10年以上が経った。軍備拡大や改憲をめぐる動きが進み、過去の加害の歴史を否定する言説も繰り返される現在、塚本はなぜいま、アレン・ネルソンを「もう一度この世に復活させる」必要があると考えたのか。戦争トラウマと加害を語ること、被害者と加害者という二分法、戦争映画に潜むヒロイズム、そして戦争を次の世代へ伝える映画の力について、話を聞いた。
「野火」を振りかえって
——「野火」を制作された当時、監督は日本社会に「戦争へ向かっているきな臭さ」を感じ、「いま作らなければ」と映画化を急いだとお話しされていました。それから10年以上が経ち、軍備拡大や憲法改正をめぐる動きなど、当時よりも状況は明らかに悪化し、戦争へ近づいているのを感じます。
塚本晋也(以下、塚本):「野火」を最初に上映した2015年は、安保法制の成立や、集団的自衛権の行使容認をめぐる動きがあって、日本が急激に戦争へ近づいているように感じた年でした。「これはおかしい」と、国会前に大勢の人が集まって抗議していましたよね。その後一時期、政権側が水面下で作戦を考えていたのかなと思うような期間がありましたが、今や状況は着実に厳しくなってきている。奇しくも安保法制が成立した年に「野火」が公開されたように、アレン・ネルソンさんの映画を作った今年にさらに大きく戦争に近づいてしまっている感覚があります。政権側は国民投票法の改正など、憲法改定に向けた動きにもかなり力を入れ、そちらへ大きく舵を切り始めていますよね。だからこそ、みなさんが国会前に集まって抗議することも必要ですし、自分もこの映画をなるべく多くの人に観てもらって、「戦争に行くとこういうことになってしまう」ということを肌で実感してもらいたい。その思いがいま強くあります。
——安保法制が成立したのが2015年の9月19日ということにちなみ、毎月19日には国会前で大規模なデモが行われています。昨日(8月19日)も1万5000人が国会前に集まり、憲法改正の動きなどに対して怒りの声を上げていました。
塚本:渋谷でもやっていますよね。とても大切なことだと思います。
——7月からは再び「野火」も上映されていますが、この10年間、上映を続ける中で、観客からどのような声を受け取ってきましたか。
塚本:「野火」の上映後に質疑応答をする機会がありますが、みなさん映画について質問するというより、言葉を失ってしまって、その代わりにご自身の肉親の話をされる方が多いんです。「うちの父親はニューギニアに行って、帰ってきてからこうなった」というように。そんな話を聞くたびに、「『野火』で描いたことは、本当にあったことなんだ」と自分でも確信していきました。
もちろん、制作当時も原作をしっかり読んで、インタビューもして、作りながら手応えは感じていたんです。ただ、それでもどこかギリギリのところで出来上がった映画という感覚があった。でも、その後10年以上にわたっていろいろな方のお話を聞く中で、「これは本当にあったことだったんだ」と確信が深まり、映画自体もよりしっかりとしたものになっていったような気がします。
戦争とPTSD
——今作「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」は、完成までに長い時間を要した念願のプロジェクトだったと伺っています。「精神と身体の変容」や「人間性の境界」を描くという意味では「鉄男」から連なるものがありますが、とりわけ「野火」「斬、」「ほかげ」で描いてきた戦争とトラウマというテーマが、本作で一つの集大成を迎えたようにも感じました。
その一方で印象的だったのが、ネルソンさんが人を殺せる人間へと変えられていく過程だけでなく、そこから長い時間をかけて回復し、人間性を取り戻していく過程にも大きな比重が置かれていることです。今回、その「再生」の過程まで描くことは、監督にとって重要だったのでしょうか?
塚本:そうですね。アレンさんは、戦争さえなければ本当に人格の素晴らしい方だったと思うんです。でも実際には、戦場であれだけの加害行為をして帰ってきた。その結果、これほど恐ろしいPTSD、戦争トラウマを抱えることになるんだということをまず描きたかったんです。「戦争に行くとこんなことになる。本当に嫌でしょう」と。
ただ、アレンさんは一生懸命それを克服しようとするんです。少し前へ進んではちょっとしたことが引き金になって、すぐに当時の状態へ引き戻されてしまう。それでもアレンさんの人格の素晴らしさもあり何とか前進するけれど、また戻ってしまい、完璧には克服できない。それだけ戦争トラウマは恐ろしいものだけれど、何とか克服しようとするアレンさんのような存在もいるというせめぎ合いも描きたいと考えました。
またアメリカではベトナム戦争後からPTSDという概念があったけれど、日本にはそういう概念が共有されていなかったわけです。そのため、大勢の元兵士が戦争による病気であることすら認められず、「変な人」「異常な人」のように扱われて社会に放り出されてしまった。その悲劇も感じてもらえたらと思っています。
——ネルソンさんが再生していく過程で重要なのが、自らの加害を言葉にすることですよね。「戦争だったから」「命令されたから」ではなく、やがて「殺したかった」と認め、それを他者に語り始めることで少しずつ回復していく。加害を自分自身のものとして引き受け語ることと、人間性を取り戻していくことの関係をどのように考えていますか?
塚本:僕も本を読んで知ったんですが、カウンセラーであるダニエルズ先生はアレンさんが本当のことを話せば話すほど、PTSDや戦争トラウマが少しずつ軽くなっていくことに気づいていくんですね。ただ、そこに至るまでにはいくつか段階がある。まず子どもの頃のことから話し始めて、戦争体験についても少しずつ語っていく。そうやって話を重ねていくうちに、アレンさん自身がどんどん柔らかくなっていくんです。それでも、どうしても言えないことが最後に残る。ダニエルズ先生はアレンさんの様子を見ながら少しずつ心の奥へ入っていって、最後にはそこまで語ってもらう。すると、完全に治るわけではないけれど、PTSDが大きく軽減していく。
アレンさんには、ダニエルズ先生のような人がいたからまだよかった。でも日本では、そもそもPTSDという概念が広く認識されていなかった上に「日本兵にそんな軟弱な人間はいない」「そんなふうになるのは心が弱いからだ」と切り捨てられてしまった。だから、多くの人が本当のことを話すことができなかった。そのまま亡くなるまで、強い戦争トラウマを抱え続けた人もたくさんいたと思います。アレンさんのように治療する手段があれば、完全には治らなくても、家族も「これは戦争の影響なんだ」と理解して付き合うことができる。話すことで少しずつ救われていったアレンさんと、話すことができず、本人も家族も最後まで苦しんだ日本の元兵士たち。その違いは大きかったと思います。
——ただ戦時中の日本には、戦争によってPTSDのような症状を発症した兵士を収容する病院があったんですよね。ところが終戦時、そうした兵士たちの症状を記録したカルテの焼却が命じられた。
塚本:そうですね。当時は「日本の兵士が精神を病むはずがない」という建前があった。だから終戦時には、国からカルテの焼却を命じられたんです。ただ、軍医たちはその命令に抗って資料を密かに残していた。その記録から、日本にも戦争によって精神を病んだ兵士が数多くいたことが、後になって明らかになっていったんですね。こうした記録がもっと早くから知られていれば、戦争による精神的な傷に対する社会の認識も違っていたかもしれません。
日本人の戦争トラウマ
——今年公開されたドキュメンタリー映画「父と家族とわたしのこと」(26)では、第二次世界大戦から帰還した兵士たちが戦争トラウマを抱えながら、それが当時ほとんど理解されなかったこと、さらにその傷が虐待や自死という形で子や孫の世代にまで受け継がれていくことが描かれていました。そのように、ここ数年で日本でもようやく戦争トラウマや世代間トラウマについて語られるようになってきた印象があります。
塚本:「野火」を作った2015年は、黒井秋夫さん(※1)がアレンさんのことを知って、「自分の父親がずっと茫然自失としていたのは、戦争のトラウマだったんだ」と気づいた年でもあったんです。そこから黒井さんと僕は、同じような問題意識を持ちながら歩んできたところがあって。僕が「斬、」を作り、その後「ほかげ」でPTSDの問題も含めて戦争を描いていく時期に、黒井さんは日本人の戦争トラウマについて非常に深く調査されていて、僕も黒井さんに取材させてもらったんです。黒井さん自身、アレンさんの講演やドキュメンタリーを通してPTSDの存在を知り、「日本にもPTSDになった兵士がたくさんいたはずだ」と考えるようになったそうで。僕も黒井さんと関わる中で、一緒にその考えを深めていったような感覚があります。
※1:「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」代表。復員日本兵の戦争トラウマと、その家族への影響を伝える活動を続けている。著書に「戦争トラウマを語り合う」など。
——日本人のPTSDについては、「戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症」(17)という本に詳しく書かれていますよね。
塚本:中村江里さんが書かれた本ですね。いま非常に重要な本だと思います。
——語ることで救われるのは、戦争経験者だけではありませんよね。帰還兵だった父親から虐待を受け、深い傷を負った人が、「戦前の父は良い人だった。戦争によって変わってしまったんだ」と知ることで、初めて救われたという話も聞きます。
塚本:そうです。黒井さんは、まさにそこに最初に気づいた方ですね。
——アレンさんは著書「戦場で心が壊れて 元海兵隊員の証言」の中で、「日本全体がPTSDにかかっている」と書かれていました。日本は第二次世界大戦における自らの侵略や加害の歴史を十分に認め、語ってこなかった。それどころか、政治家が過去の侵略を正当化することすらある。そうした日本社会の姿と、自らのトラウマを認められず語ることのできないPTSDの状態を重ねた言葉だと思うのですが、非常に腑に落ちたのを覚えています。
塚本:日本は、自分たちがしてきた加害について、お金を払ったり「ごめんなさい」と言ったりはしているんですけど、おそらく心からの謝罪としては伝わっていない。だから、いつまでも問われ続けるんだと思うんです。それどころか、過去の加害の歴史そのものを消そうとしている。
ドイツは、戦争が終わってから、自分たちが何をしたのかを反省し、そのことと向き合い続けてきた。そうやって過去を認め、語り続けることで、社会全体のPTSDも少しずつ軽くなっていったんじゃないかと思います。でも日本は、そのことをずっと認めてこなかった。本当のことを言えないまま、日本全体が病的な状態になっているとアレンさんも言っていました。おそらく、それは本当にそうなんじゃないかと思います。
——リリー・フランキーさんが演じる黒井(※2)が、日本人の抱える戦争トラウマについて語るシーンがありますね。実を言うと初見の時は、「その言葉はこの映画を観た人それぞれの考えに委ねてもいいのでは」と思ったのですが、最近のあらゆる加害の歴史を否定する風潮を見ているうちに「確かに日本人の立場から言葉にすべき内容だった」と考えが変わりました。監督にとっても、あの場面で日本の戦争を言葉にすることは重要だったのでしょうか。
塚本:そうですね。あそこだけは丸々原作にはないので、観る人によっては「なぜ突然日本人が出てくるんだ?」と思うかもしれません。でも、黒井さんがアレンさんを知ったことで、日本におけるPTSDの問題がにわかに浮上してきたように、日本でも戦争の加害に伴うPTSDの問題はもっと表に出てくるべきだと思ったんです。あまり細かく描きすぎるのはどうかとも思いましたが、みなさんがそのことを考えるヒントになるくらいには、入れる必要があると思いました。
※2:映画に登場する黒井(リリー・フランキー)は、黒井秋夫氏を含む、塚本監督が取材した日本の関係者を集約して作られたキャラクター。
沖縄の問題
——印象的だったのが、沖縄を舞台にしたパートです。ベトナム戦争前に滞在する沖縄で、兵士の人間性が奪われていく過程とともに、米兵から沖縄の人々がどのように見られ、扱われていたのかが描かれます。そこにある植民地的なまなざしは現在にも明確に引き継がれていて、いまも沖縄で繰り返される米兵による暴力、とりわけ性暴力が、決して過去と切り離された問題ではないことも見えてきました。
塚本:そうなんです。短いシーンではありますが、いまの沖縄の問題を凝縮して描くことができたのではないかなと思います。
——アレンさんは「沖縄に基地はいらない—元海兵隊員が本当の戦争を語る—」という本も執筆されていますね。
塚本:1995年に沖縄で米兵による女子小学生への性暴力事件(※3)が起きた時、沖縄の人たちがアメリカに向けて「誰か、いまの沖縄の現状を見に来てください」と呼びかけたけれど、なかなか来る人はいなかった。そりゃ、その状況では誰だって来たくないですよね。そんな中で、アレンさんだけは実際に沖縄へ足を運んだんです。そこでアレンさんは、まず「ベトナム戦争が終わって随分経つのにまだ米軍基地があるのか」と驚いた。そして沖縄の人たちとの交流の中で、憲法9条(※4)についても教えてもらった。それで「こんなにいい憲法があるのか」と感動したそうなんです。
※3:1995年、沖縄で米軍人3人が12歳の少女を拉致・暴行した事件。事件後、米軍基地や日米地位協定をめぐる県民の抗議が大きく広がった。
※4:憲法9条:日本国憲法で、戦争の放棄と戦力の不保持、交戦権の否認を定めた条文。第二次世界大戦後の日本の平和主義を象徴する規定とされる。
加害者であり、被害者でもある
——ここまで加害について伺ってきましたが、戦争をめぐる語りでは、被害と加害を別々のものとして捉えてしまいがちですよね。
塚本:そうですね。特に日本では、戦争というと大体被害者としての目線になります。原爆や空襲があったので、民衆の立場からすれば被害の記憶のほうが大きい。だから戦争というと「恐ろしい目に遭った」という被害者の視点になりやすいんですね。小説や映画にもそういう作品は多いですし、それによって観客の共感も得られるし、戦争の恐ろしさも十分に描くことができる。もちろん、それは必要で大事なことだと思います。ただ、加害の側も描かないと、戦争の恐ろしさを本当に知ったことにはならない。それはずっと思ってきたことですね。
——ただ、本作のネルソンさんは、ベトナムの人々にとっては加害者である一方、戦争によって壊された被害者でもあります。そう考えると、戦争における加害と被害は、必ずしも切り離せるものではないように感じます。
塚本:戦場へ行った人は、加害する側も被害を受ける側も、実はみんな戦争の被害者なんですよね。本当の加害者はもっと上にいて、自分は戦場へ行かずに、戦争を決め、始めた人たちだと思うんです。いまは便宜的に「戦場における加害と被害」として話していますが。
——作中では、貧困層や有色人種が軍に入り、戦場へ送られていく構造も描かれていますね。彼らが自由な選択として軍隊を選んだというより、経済格差や人種差別によって、その道を選ばざるを得ない状況に置かれている。
塚本:日本ではまだそこまで切迫した状況ではないですけど、もし憲法が変わって、自衛隊が国防軍のような組織になり、いま人命救助などに携わっている自衛隊員が「戦争へ行くのなら嫌だ」と辞めていったとしたら、その穴を埋めるのは、やはり経済的に余裕のない人たちになっていくと思うんです。結局、前線に立たされるのは、そういう人たちなんですよね。
——一方、戦争を国家の側から捉えると、「国益」「安全保障」「抑止力」といった言葉になりがちです。監督は「野火」「斬、」「ほかげ」、そして本作まで、一貫して戦争によって一人の人間の身体や精神に何が起こるのかを描いてきました。国家の視点ではなく、一人の人間の身体へと戦争を引き戻して描くことに、どのような重要性を感じていますか?
塚本:戦争ものには、軍の指導者たちが作戦を練って、その駆け引きを見せることで、観客が手に汗を握るような作品がよくありますよね。でも、僕たちは戦争を指揮する側ではなく、その指令によって実際に殺し合ったり、殺されたりする側なんです。そのことをちゃんと考えているのかな、と思う時があります。
わかりやすく時代劇に置き換えると、織田信長のような人物が戦略を練って戦う姿には、みんな手に汗を握る。でも実際に戦場へ駆り出されるのは、名もない大勢の人たちですよね。僕たちはむしろ、そちら側なんです。それに、指導者でなくても、戦場で英雄的な活躍をする人物に観客が共感することがありますよね。そこにも僕は、やはり少し恐ろしさを感じます。
——そういう意味で、「斬、」は時代劇でありながら、現代にも通じる戦争映画だったように思います。
塚本:頭では戦うべきだと思っているけれど、身体が拒絶反応を示す。あの時代にも、そういう人はきっといたのではないか。そのつもりで作りました。
戦争映画とヒロイズム
——また戦争映画には、「反戦」を訴えながらも、殺し合いをエンターテインメントとして魅力的に描いてしまう作品が少なくありません。その一方で、本作は大規模な撮影を敢行しながらも、スペクタクル的な見せ方を徹底して避けているように感じました。
塚本:そうですね。言葉では「反戦」と言いながら、戦争という出来事を「みんなで一致団結して頑張ろう」と描いてしまう作品は少なくありません。つまりヒロイズムですよね。他のテーマでヒロイズムを描くのはもちろん痛快ですし、みんなで協力すること自体は良いことだと思うんです。
けれど戦争映画では、人を殺すことを目的とする戦争にヒロイズムを持ち込んで、「みんなで一致団結して相手を殺しましょう」とやっているわけですよね。そこには非常に強い違和感があります。いくら最後に「反戦」がテーマだと掲げても、映画を観ればわかってしまいますよね。
——だからこそ本作では、戦闘そのものをどう見せるかが非常に重要だったと思います。戦闘場面を描く上で、どんなことを意識されましたか?
塚本:とにかく、アレンさんの原作に書かれていることを忠実に描こうと思いました。人を殺す時には、ある種の異常な高揚感もある。でも同時に、自分が非常に恐ろしいことをしていると感じさせる。その後、戦争トラウマやPTSDを抱えてしまうのも当然だと思えるような、恐ろしい出来事として描くべきだと思っていました。
——戦争映画にヒロイズムを持ち込むことへの違和感はよくわかります。一方で、特にアメリカでは軍人が「英雄」として称揚される文化が根強くありますよね。そうした中で、ベトナム戦争における米兵の加害を、ここまで残酷さも含めて正面から描くことに、怖さはありませんでしたか?
塚本:むしろ、いま頃になってちょっと怖くなってきました。作っている時は、アレンさんが実際にそうだったわけですから、「アレンさんの言う通りに一生懸命描くしかない」と思っていたんです。でもいよいよ上映する段階になって、「そういえば、これはどう受け取られるんだろう」と。ただ僕は、とにかくアレンさんという人をもう一度この世に復活させることに使命感を持って作っていたので、そのことを一生懸命伝えるしかない。これは本当のことですから。
海外での上映
——トロント国際映画祭で、この作品がどのように受け止められるのか、個人的にも非常に気になります。
塚本:トロントのディレクターからは「カナダの観客はそのあたり、アメリカとはまた少し違うから安心して」と言われました(笑)。そうなると、じゃあアメリカではどうなんだろうとあらためて思いますよね。でも、もちろんアメリカでも上映したいです。トランプを好きな人が半分、嫌いな人が半分という国ですから、みんなに好かれる映画になるのは難しいかもしれませんが。
——現在のアメリカでも、過半数が「ベトナムへの派兵は間違いだった」と考えているようですから、この作品を肯定的に受け止める人もきっと多いと思います。しかも、描かれている問題は決してベトナム戦争だけにとどまらず、現在の戦争にもつながるものですよね。
塚本:はい。自分は特定の戦争でなく、いつの時代にもつながる戦争そのものを描いたつもりです。ただ「あれだけ加害をした日本人が、アメリカの加害をそこまで描くのか」と言われるかもしれません。大きな違いは、アレンさんは自分がしたことを正直に語ったけれど、日本ではそうやって自らの加害を語る人がほとんどいなかったということですね。
——映画の最後には、アレンさんが枯葉剤の影響による多発性骨髄腫で亡くなったことが伝えられます。観客への補足という意味でも伺いたいのですが、ベトナム戦争で散布された枯葉剤が現地の人々や帰還兵に残した被害については、取材の中でも感じることはありましたか。
塚本:枯葉剤の影響は明らかにあって、しかも世代をまたいでいまも続いています。ベトナムへ取材に行った時、そうした影響を受けた方々が通う学校に案内してもらいました。みなさん元気に歌を歌ったりしていましたけど、そもそも枯葉剤がなければ、そういうことにはならなかったわけですから。沖縄でもいま枯葉剤をめぐる問題がありますが、アレンさんの場合は、ベトナムで受けた影響によるものだと考えています。
映画オリジナルのスピーチ
——ベトナムを再び訪れたネルソンさんのスピーチに強く心を揺さぶられました。本にはベトナムで講演をしたということは記載してありましたが、詳しい内容までは載っていませんよね。実際のスピーチは映像か何かで残っていたんですか。
塚本:映像はありました。そこではアレンさん一人ではなく、もう少し多くのゲストがいました。もちろんベトナムの方々の胸の内にはいろいろなものがあったと思いますが、会場自体はもう少し和気藹々とした、親睦会のような雰囲気だったんです。ただその映像に関しては、映画作りの終盤で「こういうのがあります」と見せてもらったものだったので、映画を作り始める際に参考にしたわけではありませんでした。
——ではスピーチの内容はどのようにして書かれたのでしょうか。
塚本:あれは実際の言葉だけではなく、「アレンさんだったら当然こういうことを話すだろう」と考えて作ったものです。たしか最初は脚本にも書いていなかったと思います。それで撮影が近づいていた時、ロドニー(・ヒックス)に「映画を通して考えたことを、自分の言葉で話してみて」と任せようかと思っていたんです。ですが本人から「やはり台詞がほしい」と言われ、「アレンさんならこう言うはず」という言葉を、スッと書きました。
——スッと……!そうは思えないほど重要なことが語られていますよね。とりわけ印象に残るのは「人間を数としてしか見ていなかった。一人ひとりに名前があることすら考えもしなかった」という言葉です。戦争について伝えられるとき、現在でも犠牲者は何万人という「数」で語られがちですから。
塚本:そうですね。あの考え方は原作にもあったと思いますし、繰り返し読むうちに、「アレンさんならこう言うだろう」という言葉がスッと出てきたんだと思います。実は最初は、もう少し細かく残酷なことまで語るつもりだったんです。ただ、「そこまで語るのはどうか」という意見もあって、その後にさらに具体的な体験を語り始めるのだろう、という余韻を残して終わることにしました。
戦争を語り継ぐこと
——戦争体験者が少なくなり、その記憶を直接聞くことが難しくなっていく中で、戦争を次の世代にどう伝えていくかはますます大きな課題になっています。映画作家として、戦争を語り継ぐこと、そして映画で伝えることの意味をどのように考えていますか?
塚本:結局、語らなければ戦争がどういうものなのかはわからないと思うんです。頭では「そういうことが昔あった」と理解できても、実感として知ることはできない。そこは実際に体験した人から直接話を聞くこともそうですし、映画のような表現を通して知ることもできる。映画は現実にかなり肉薄できる表現なので、あたかも自分自身が体験したような感覚になれる。そうやって肉体的、体感的に戦争を知ることは、いまの時代にとても大事だと思います。映画は、そのための重要な表現のひとつなんじゃないでしょうか。僕自身は、観客になるべくアレンさんに、あるいは『野火』なら主人公の田村に同化するような形で、戦争を実体験に近い感覚として受け取ってもらいたいと思っています。
——そういう意味でも、本作はとりわけ若い世代に届いてほしいと感じています。資料でも「僕自身、『はだしのゲン』を見て強烈なインパクトを受けたように、映画で仮のトラウマを経験してもらい、擬似体験の傷から防御膜を張ってもらえればと思っています」と語っていましたね。幸い本作のレイティングはPG-12だそうですが、アレンさんが若い世代に向けて本を書き、講演を続けてきたように、この映画を通してその言葉を次の世代へ届けていくことも意識されていますか?
塚本:自分の映画では、いつもはあまりターゲットを考えてはいないんです。昔の映画は若い人しか観に来なかったんですけど、「野火」以降は本当にいろいろな世代の人が来てくれるようになりました。老若男女という感じですね。これからもそうであってほしいと思います。ただ、特に本作を観てほしいのはやはり若い人です。これから戦争のある世界を生きていかなければならなくなる可能性のある人たちに、この映画を観てもらいたい。それは強く望んでいますし、そのためにアレンさんをもう一度この世に復活させる、ということを考えていたので。
——アレンさんは著書の中で繰り返し憲法9条の重要性を語り、「9条はいかなる核兵器や軍隊よりも強力だ」とまで訴えていました。一方、日本では現在、9条への自衛隊明記を含む改憲議論が具体的に進められています。戦争で実際に人を殺し、その後遺症に生涯苦しんだアレンさんが、それでも武力ではなく9条の理念にこれほど大きな希望を見いだしたことを、監督はどのように受け止めていますか?
塚本:アレンさんのように、戦争の恐ろしさを肌で感じた人は、9条がどれほど大事なものかを身に染みてわかっていると思うんです。日本でも、戦争で自身が深く傷ついたり、家族を失ったりした人たちは、同じようにその重要性を実感しているはず。そうした焼けるような熱さを知っている人たちがいなくなっていくと、肌ではなく頭だけで考えるようになる。そうすると、「9条には矛盾がある」とか、「この文言は少し違うんじゃないか」とか、細かなことを言い始める。でもそういう問題じゃないんじゃないかと思うんです。9条には、何より大事な「理念」が書かれている。
良くも悪くも、その解釈をめぐってこれまでずっとせめぎ合ってきた。僕はその状態が大事だと思っています。実際、憲法を変えなくても日本はかなりの武力を持っていますよね。こんなことを言うとあれですけど、僕自身、すべての武力をポイッと捨てても大丈夫だと思えるほど、性善説を信じている人間ではないんです。『野火』を作っているくらいですから、人間に対する疑いもたくさん持っています。だから、武力をすべて捨ててしまっても平気だとは思わない。でも、「武力を持っているのだから、それに合わせて憲法も変えよう」とも思わないんです。
理念が9条に書かれていて、その解釈をめぐって「ここまでは持てる」「いや、持つべきではない」とせめぎ合っている。曖昧ではあるけれど、その状態が重要だと思うんです。現に武力を持つことができているのなら、言ってみれば憲法を変える必要はない。それなのに、なぜ変えたいのか。それは、理念そのものを変えたいからだと 思うんです。僕たち普通に生きている一人ひとりが一番大事なのではなく、権力を持った人や、何か大きなもののほうが大事だという理念に変えたい。でも、そういう方向へ変えようとしているのに、普通に生きている僕たち有権者が「そうだよね」と賛成してしまうことが、僕にはどうしても不思議なんです。
権力を持つ人たちの理念に従うということは、一人ひとりの人間が大事だということではない。やがて「何かのために戦争へ行って、命を捨ててください」ということにもつながっていく。そういう方向へ戻したいと考えてきた人たちは、第二次世界大戦が終わってからも、ずっと同じ思想を持ち続けてきたのだと思います。「時代が変わったから憲法を変えるんだ」と言うけれど、その人たちの考えが時代に合わせて変わったわけではない。むしろ時代のほうが恐ろしくなってきたから、「いまがチャンスだ」と一気に押し通そうとしている。だから、その理念だけは絶対に変えてはいけない。9条を変えることなく、今のまませめぎ合っていればいいんじゃないかな、と僕は思っています。
PHOTOS:HIRONORI SAKUNAGA
作品概要
◾️映画「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」
9月11日からkino cinéma 新宿ほか公開
監督・脚本・撮影・編集:塚本晋也(「野火」、「斬、」、「ほかげ」)
出演:ロドニー・ヒックス ジェフリー・ラッシュ マーク・マーフィー リリー・フランキー and タチアナ・アリ
原作:「「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」」(アレン・ネルソン著、講談社文庫刊)
参考文献:「戦場で心が壊れて 元海兵隊員の証言」(アレン・ネルソン著、新日本出版社刊)
製作:木下グループ
制作プロダクション:キノフィルムズ、Cross Media International、J&B Entertainment、Chanh Phuong Films
配給:キノフィルムズ
2026年|日本|英語|116分|カラー|5.1ch|Dolby Atmos|ビスタサイズ|英題:Mr. Nelson, Did You Kill People?|PG12
©️Mr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners ©Allen Nelson/KODANSHA
映画「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」公式サイト









