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【追悼 三宅一生】「イッセイ ミヤケ」のパリコレでの立ち位置は特異だった 技術革新とクラフト、身体性。そのデザイン哲学を振り返る

 デザイナー三宅一生の訃報を受け、世界中の人がSNSなどで哀悼のメッセージを発信している。フランスの元文化大臣ジャック・ラング(Jack Lang)氏はインスタグラムで即日、「イッセイは神聖な宝物だった。今朝、私は永遠にやるせない気持ちでいっぱいだ」と哀悼の意を表した。三宅が、日本のみならず世界において、時代を代表するデザイナーの一人であったことを改めて知る言葉だ。彼の物づくりに対する姿勢、哲学は、ファッション業界のみならずデザイン、アートの世界に広く影響を与えてきた。

プレタポルテ黎明期に始まったキャリア

 若き三宅一生はグラフィックデザイナーとして多摩美術大学を卒業後、1965年にパリに渡りオートクチュールを学び、ギ・ラロッシュ(Guy Laroche)やユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)の元でキャリアをスタートした。それは、ファッションの主流がオートクチュールからプレタポルテへと移行する転換期のこと。三宅は森英恵と並びオートクチュールの文化を肌で知る数少ない日本のファッションデザイナーであり、髙田賢三と並び日本発プレタポルテの道を世界へ開く開拓者となった。その転換期に立ち会ったことは彼のデザイナー人生に大きな影響を与えた。

 2007年のインタビューで、三宅は米国版WWDに「私はオートクチュールを学び、それは私にとって非常に良い教育だったが、彼らはすでにそれを完成させており、私はそれを超えることができなかった。何か、ヨーロッパのファッションとは違う新しい何かを考えなければならなかった」と語っている。「服を作るにはスケッチをして、布があって、切って、縫って、それで服になると思われている。それはいい方法だけど、伝統的な方法だ。少し反抗的かもしれないけれど、“別の方法”を見つけるのは楽しいよ」とも。「新しい何か」。それは三宅が一生をかけて追いかけるもの作りのテーマとなっていった。

技術革新が生む“新しさ”

 イッセイミヤケ社は自社の考え方を説明する際にたびたび「1本の糸、一枚の布」という言葉を使う。「1本の糸、一枚の布」から始まる服作りは、従来のオートクチュール型とは根底から発想が異なる“別の方法”。それを初期から支えたのが日本の合繊の技術革新だ。

 1970~80年代の日本は合繊メーカーの飛躍の時にあり、三宅も東レなどをパートナーに最新技術を用いたポリエステルやナイロンといった素材を用い、天然素材が主流だったマーケットに“新”を投げかけた。それが後の大ヒット商品「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ(PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE)」誕生へとつながる。「1枚の布を切らずに形を作る」そんな無理難題をあえて自らに課し、イノベーションの力を借りたことでポリエステルの製品プリーツの服が生まれたと言っても過言ではない。プリーツにより、どんな体型であっても体にピッタリで、しかも体の凹凸を強調することもない。いわば万人のためのオートクチュールの誕生だ。

 技術革新は“新”を生み出すためのパートナー。その姿勢は生涯続き、後進にも受け継がれている。2000年に藤原大と誕生させた工業用編み機にコンピューター技術を組み合わせて生み出される「エイポック (A-POC)」、10年に「再生・再創造」という考え方を集約し、改良を重ねて開発した再生ポリエステル生地などを用いて立ち上げた「132 5. イッセイ ミヤケ(132 5. ISSEY MIYAKE)」、21年に始動した「エイポック エイブル イッセイ ミヤケ(A-POC ABLE ISSEY MIYAKE)」。次々送り出す新ラインの多くがモノづくりの技術革新と研究者、職人たちの切磋琢磨で生まれてきた。

クラフトへの情熱、東北への思い

 訃報に寄せて英国のデザイナー、ジョナサン・アンダーソン(Jonathan Anderson)がインスタグラムに投稿した写真と言葉がとても印象的だ。彼は英国を代表する陶芸家ルーシー・リィ( Lucie Rie)と三宅の2ショット写真をあげ「彼のクラフトとテクノロジーへの取り組みは、私たちのファッションの見方を変えた」とコメントしている。クラフトに造詣が深いジョナサンのこの発言は、三宅の仕事にクラフト、生活工芸という重要な要素があったことを改めて教えてくれる。ルーシーは三宅にとって憧れの存在であり、84年に彼女を訪れて以降交流を深め、「イッセイ ミヤケ」1989-90年秋冬コレクションでは彼女のボタンを使った服を発表し、同年日本で「現代イギリス陶芸家 ルゥーシー・リィー展」を企画・監修し96点の作品を紹介している。

 三宅のクラフトへの着目は、キャリアの早い段階から始まっており、襤褸(ぼろ)や割烹着といった日本の民衆の仕事着からヒントを得てデザインを展開することがよくあった。特に東方地方の伝統技術や民藝への思いは深かった。そこには一般の人々の日常生活、労働に対する静かで深い畏敬の念のようなものが見てとれる。

 2011年夏、3月11日の東日本大震災からわずか4ヶ月後に三宅は「東北の底力、心と光」と題した展覧会を東京・六本木の21_21デザインサイト(21_21 DESIGN SIGHT)で開催する。「厳しい自然と共存し、長い歴史に磨かれた手仕事で力強い日用品を生み出してきた東北の人々」のために立ち上がったのだ。会場には、白石和紙、シナ布、津軽こぎん刺し、裂織(さきおり)、ホームスパン、草木染め、ニット技術といった手仕事の数々をそろえた。「東北へ、デザインの旅」と題したメッセージの中で三宅は、「東北各地に息づくものづくりの奥深い伝統と優秀な技術は、日本と世界をリードする質の高さを誇っている」と語っている。

 震災とそれに続く原発事故は多くの人にとって日常を、そして粘り強く受け継いできた技術や文化を一瞬にして「無」としかねない絶望であり恐怖であった。被爆者でもある三宅の心の内を知る術はないが、長い年月をかけて育まれ、土着してきた手仕事を「無」にすることは三宅にとっては到底耐え難いことだったに違いない。「絶やすまい」。同展のスピード開催からは三宅の強い思いが受け取れる。

 クラフトへの関心はもちろん、単なる懐古主義などではない。そして美術館に飾られるアートでもない。生活に根ざすものだ。1968年にパリで5月革命と遭遇し、既存の権威主義に抗議する若者の情熱に触れ「Tシャツやジーンズのような普遍的な服を作りたい」と心に決めたという三宅は、その後も一貫して生活の中の衣服、その進化を追い求めた。1980年代初めのインタビューの中に「僕の家の近くにコインランドリーがあり、一日中動いている。これからはあそこで洗われていく服も作っていく」という一言が見つかる。洗濯機で洗える、時代に即して進化した生活者の服。そこには、襤褸(ぼろ)と技術革新という一見すると相反する2つを一本の線上につなげるデザイナーの哲学を見る。

パリコレの中で独特のポジション。身体性と多様性

 三宅の仕事を振り返ると、随所に彼をインスパイアし、彼にインスパイアされる写真家、建築家、アートディレクター、そして芸術家の名前があがる。イサムノグチ、安藤忠雄、横尾忠則、村越襄、田中一光、そしてアーヴィング・ペン(Irving Penn)。あくまでビジネスに立脚しつつ次の時代を見据えて新しい服作りを模索してきた三宅にとって芸術家の存在は羅針盤であり同志だったのではないだろうか。

 その模索を具現化して見せるのがパリコレだが、「イッセイ ミヤケ」のショーは、パリコレの中でも独特のポジションにあった。モデルはいるがランウエイショーというよりもモダンアートのパフォーマンスのようであり、穏やかで、清潔な美術館で過ごす時間に似ていた。それは後進の滝沢直己、藤原大、宮前義之、近藤悟史、 「イッセイ ミヤケ メン(ISSEY MIYAKE MEN)」の高橋悠介が引き継いだときも変わらなかった。

 三宅にとってモデルを起用してのファッションショーという形式が大切だったのは、ステータス感の演出といった理由ではなく、「身体性」「多様性」を伝えるのに有効な手段だったからではないだろうか。

 「プリーツ プリーズ」誕生のひとつのきっかけは、91年にウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)率いるフランクフルト・バレエ団の衣装をニットでデザインしたことだと聞く。93年には、同バレエ団のダンサーをモデルに起用し、プリーツの服を披露した(文頭写真)。ダンサーの動きを制約することなく、そのパフォーマンスの魅力を引き出す服。衣服により体をパッケージするのではなく、その逆、解放し自然と対話する服だ。男女のモデルが飛び跳ね踊るその場に立ち会ったならきっと、命があり身体があり動けること、生への喜びを受け取ったに違いない。

 多様性については、それが声高に言われるようになるずっと前から、ごく自然にクリエイションと一体だった。様々な肌の色のモデルを起用し、彼らが手をつなぎ笑顔で歩くシーンもよく見られた。1976年に「三宅一生と12人の黒い女たち」と題したファッションショーを西武劇場で開いていたことには驚かされる。石岡瑛子がアートディレクションを手がけ、モデルには12人の黒人女性だけを起用している。また、日本の婦人・労働運動の草分け的存在である市川房江が「アサヒグラフ」1974年10月1日号の表紙を飾ったとき、彼女が着ていた服が「イッセイ ミヤケ」だったことも付け加えておきたい。

 パリコレというビジネスの場所は権威主義的な側面も強いが、同時に“新しいデザイン”に対しては、無条件で賞賛を送る。「イッセイ ミヤケ」がパリコレの中で特異だったのは、“新しいデザイン”を送り出し続けたからに他ならない。

 半世紀近いキャリアの中で、三宅と関わった人は、何千人、何万人といるだろう。彼らは自らを「ガキ大将」と称した三宅から薫陶を受けつつ、多くの苦悩、苦々しい瞬間もあったに違いない。ビジネス的には何度か困窮しその都度「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ」や「バオ バオ イッセイ ミヤケ(BAO BAO ISSEY MIYAKE)」といったヒット商品が生まれ続いてきたと聞く。ファッションビジネスは結局水物、である。同時に執念を持って自身の哲学を貫き周囲を巻き込むことで続いてゆくもの、でもある。三宅の哲学を引き継いだ後進たちが時代の中で立ち止まることなく、未来の物づくりを模索し続けることで“イッセイさん”の意志を未来へつなげることを願う。