イタリア・ソロメオ発のラグジュアリーブランド「ブルネロ クチネリ(BRUNELLO CUCINELLI)」は、創業者ブルネロ・クチネリの半生を描いたドキュメンタリー映画『ブルネロ 静かなる先見者』(原題:Brunello, il visionario garbato)を11月6日に全国公開する。
メガホンを取ったのは、『ニュー・シネマ・パラダイス』で知られるアカデミー賞受賞監督ジュゼッペ・トルナトーレ。農村で育ったブルネロ少年が1978年に小さなニット工房を創業し、世界的ブランドへと成長させるまでの軌跡と哲学に迫った。証言やアーカイブ映像に再現ドラマを交え、その人生を立体的に描き出している。
公開に先駆け、10月20日には東京・白金台の八芳園で先行試写イベントが開催され、来日したブルネロ・クチネリ本人が登壇。映画制作の背景にある思いとともに、貧しかった少年時代に学び、現在の企業経営にも通底する「美しく生きること」「尊厳」「人とのつながり」について語った。
本当に大切なのは「魂の豊かさ」
今や世界的な高級ブランドとして名を馳せる「ブルネロ クチネリ」だが、本作が焦点を当てるのはそのきらびやかな成功ではなく、貧しい農村で育った一人の少年の生い立ちだ。そこからは、彼が現在掲げる「人間主義的経営」の原点を汲み取ることができる。
制作にあたりブルネロがこだわったのは、村人全員が家族のようだった当時の情景を、取り繕うことなくありのままに描くことだった。監督にトルナトーレを指名したのも、「ある意味で私の人生そのものである『ニュー・シネマ・パラダイス』を撮った彼なら、そして同じように貧しい田舎の暮らしを知る彼なら、私をすぐに理解してくれると考えたから」だという。トルナトーレ監督もその思いに応え、少年期の記憶を鮮明に再現するため、著名な俳優は起用していない。
1970年代のイタリアの田舎で青春時代を過ごしたブルネロは、当時を「貧しくとも飢えを知らない、素晴らしい時代だった」と振り返る。「大学ではエンジニアリングを3年間学びましたが、試験は1つしか受けませんでした。まったくきちんと勉強していなかったのです」と明かし、「娘たちが母親と宿題に取り組んでいる後ろから、『宿題なんてしなくていい』と茶々を入れていたほどです」と会場の笑いを誘った。
「しかし、勉強で養う知性の豊かさ以上に、本当は『魂の豊かさ』こそが大切なのです」。若き日のブルネロの魂を豊かにしたのは、10年間通い詰めた村のバール(カフェバー)での時間だった。友人たちとたむろし、1日15時間ほどをそこで過ごしたという。ただ無為に時間を潰していたわけではなく、政治や経済、人間にとっての「善」について語り合い、互いに耳を傾ける場だったのだ。
翻って現代は、そうして語り合える相手も時間も失われつつある。ブルネロの目には、今の子どもたちは15歳にしてすでに「残りの人生を決められてしまっている」ように映るという。
「今、非常に孤独な人たちが増えています。私はこの『孤独』というものがとても怖いのです」。自身が生まれ、今も暮らす小さな村には、精神的な貧しさも孤独もなかった。互いに「今日はお元気ですか」と声をかけ合い、夜は小さなカフェに集う。「そこには、小さな社会が確かに存在していました」とブルネロは語る。
だからこそ彼は今年の初め、社員3500人と関連スタッフ9000人に向けて、今年を「魂の1年」にすると宣言した。同僚の様子がいつもと違えば、「何かできることはないか、一緒にやろうか」と声をかけ合うよう呼びかけている。「それが、私たち自身を取り戻す一つのチャンスになるのかもしれません」。
「100年後、200年後も見てもらえる作品に」
また、現代の労働環境も若者たちを縛り付け、魂の闇を深くしている要因だと指摘する。「イタリアにおいて、労働環境は今や非常に深刻な問題となっています。一体どこの若者が、工場労働者になりたいと思うでしょうか」。月給1500ユーロほどに対し、家賃だけで800ユーロが消えていく。製造の現場では、働く人が外を眺めて作業効率が落ちないよう、窓すら設けない工場も多いという。「そんな職場で手を動かす仕事を、22、23歳の若者が選ぶでしょうか」とブルネロは問題を提起する。劇中では、常に明るい自然光が差し込む工場を築き、労働者が人間としての尊厳を持って働ける環境づくりに尽力する彼の姿も描かれている。
映画を通じて若者に伝えたいのも、こうした「人とのつながり」や「立ち止まる時間」の大切さだ。「空を見上げて、星を見てほしいのです。今、夜空を見上げる人は少なくなっています。問題を抱えたときこそ夜空を見上げれば、そこに何かを想像できるはずです」と、若者たちへ温かいメッセージを送った。
拠点を構える小さな村・ソロメオに劇場を建て、人間の尊厳をたたえるモニュメントを築いてきたブルネロ・クチネリ。本作について彼は、「私たちの企業の一つの歴史を、100年後、200年後の未来にも見て分かるものとして残した作品です」と誇らしげに締めくくった。