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「ヒス」の黄色いショッパーに憧れて

 「WWDJAPAN」2023年月4月24日&5月1日合併号には、1990年代に一世を風靡したデザイナーらが登場し、当時と今を大いに語ってくれました。どの大先輩も貴重なエピソードばかりで、イケイケ時代の裏話から、昔と今のファッションビジネスの規模感の違いまで、幅広い世代の読者が楽しめる内容になっています。

 同号の巻頭に登場するのは、ブランド立ち上げ39年を迎えた北村信彦「ヒステリックグラマー」デザイナーです。1990年代にみんながはいていたパッチワークのスクラッチジーンズ開発秘話や、“イケてる”の代名詞だった黄色いショッパーを巡るトラブル、そして2020年代になぜ再ブレイクしたかについてなど、たっぷりインタビューしています。1本目の記事でも読めるので、ぜひチェックしてください。

大塚 千践
NEWS 01

「ヒステリックグラマー」北村信彦デザイナーが語る再ブレイクまでの39年【90年代リバイバルの源泉】

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 2020年代のファッションを象徴するトレンドに1990年代リバイバルや“Y2K”がある。これらを経て、2020年代のトレンドはこの先どう変化していくのだろうか。1990年代に一斉を風靡したデザイナーたちや、カリスマ的人気を誇ったショップの仕掛け人、大ヒットした雑誌の編集長が当時を振り返りながら、この先のファッション界の変化を予想する。(この記事は「WWDJAPAN」2023年月4月24日&5月1日合併号からの抜粋です)

北村信彦/「ヒステリックグラマー」デザイナー

PROFILE:(きたむら・のぶひこ)1962年生まれ、東京出身。東京モード学園卒業後、オゾンコミュニティに入社し「ヒステリックグラマー」を1984年に21歳で立ち上げる。85年にはキッズライン「ヒステリック ミニ」を、90年にはウィメンズのハイエンドライン「ヒステリックス」を始動。2001年にはメンズラインもスタートした。ほかにも写真集出版や、ギャラリーを19年まで運営するなど、ファッションからアート、カルチャーまでブランドの多岐にわたるプロジェクトの中心となり続けている PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

 北村信彦デザイナーの「ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)」は来年でブランド設立40周年を迎える。運営するオゾンコミュニティが、当時21歳の青年に託したブランドは、ウィメンズウエアを軸にしながら、1985年にはキッズラインを立ち上げ、86年には原宿に直営店を開くなど、多角的な成長を続けてきた。90年代には若者にTシャツやジーンズなどが売れ、一大ブームを起こした。当時から約40年がたった今、「ヒステリックグラマー」は再びZ世代の支持を集めているといい、売上高は非公表ながら、再ブレイクの手応えをつかんでいる。設立からデザインに関する全てを担い、現在24人のチームを率いる北村デザイナーは、1990年代のブームに何を思い、2020年代を見据えるのか。

早々に決まったブランド名

WWDJAPAN(以下、WWD):学生時代からデザイナー志望だった?

北村信彦「ヒステリックグラマー」デザイナー(以下、北村):高校生のときは美容師になろうと考えていた。知人が美容師を経てヘアメイクの仕事をしていて、レコードジャケットの撮影でミュージシャンに会ったという話を聞き、将来は音楽のアーティストと仕事がしたかったので、そっちの道に進もうと決めていた。ただ美容学校の入学直前で、当時開校する東京モード学園のCMを見て、毎週通っていたレコード屋に近いし、新宿センタービルの43階で高いし、ファッションでも近づけるのかもしれないと考えて入学を決めた。親には、気が変わった、と。

WWD:その後、21歳という若さで「ヒステリックグラマー」を立ち上げることになった経緯は?

北村:在学中から、ブランドの運営元であるオゾンコミュニティで1年ほどアルバイトをしていて、新しいブランドを作るというタイミングで声をかけてもらった。ただ、学生時代からショーをするファッションデザイナーにはあまり興味がなかった。自分は古着屋で何かを見つけてくる方が好きだったし、音楽や写真、小説、アーティストなど、ポップカルチャーとサブカルチャーに傾倒していたので、それを軸にしたブランドがあってもいいんじゃないかと立ち上げたのが「ヒステリックグラマー」だ。1984年の6月に入社して、7月末には1回目の展示会を開いていた。

WWD:ブランド名はすぐに決まった?

北村:早かったと思う。日本語に翻訳できないような名前にしたいと考えながら、小説を読んだり、音楽を聴いたりして、気になる単語をノートに全て書いていった。そこから徐々に削っていき、最終的に残った組み合わせがヒステリックとグラマーだった。ウィメンズブランドというのは決まっていたので、ヒステリックでとがった雰囲気の女性にも、グラマーな女性にも当てはまる名前だと考えた。

WWD:ものづくりのこだわりが当時からぶれていない印象だ。

北村:自分の形も出来上がっていないのに、テーマだけを変えて半年間でコレクションなんて作れない。当時は若かったので、まずは自分の感性を貫くべきではないかと、さまざまなショーの現場を見て感じていた。じゃあ自分は何をすべきだろうと考えた時に、音楽とサブカルチャー、ビンテージをさらに追求し、それらを編集していけば、今までにありそうでなかったものができるかもしれないと思った。学生のときにいろいろなショー現場を見ていたので、自分らしい方向性を見いだすまでに、らしくない部分を迷いなくそぎ落とせた。

WWD:80年代当時の市場に向けた新しい提案は?

北村:メンズ用だったアイテムをウィメンズで提案すること。今は当たり前だが、ウィメンズのMA-1やシェルパーカは当時なかった。女性が着るミリタリーというと、詰め襟の金ボタンジャケットや膝下ブーツなどユニホームっぽい雰囲気。それが古着屋で見つけたMA-1をボーイッシュに着る女性が徐々に出始めて、「リーバイス(LEVI'S)」の“501”や「ティンバーランド(TIMBERLAND)」のブーツを履く女性のファッションアイコンも登場していた。であれば、自分が好きな1960年代や70年代のミュージシャンには、男性が女性用の服をタイトに着こなしてステージに立つという光景が当たり前のようにあったので、メンズのアイテムをウィメンズに置き換えて、「ヒステリックグラマー」のフィルターをかけるのもありなんじゃないかと考えた。

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NEWS 02

バロックの副社長に元日鉄物産の中村氏、社外取締役に元良品計画社長の松崎氏

 バロックジャパンリミテッドは26日、日鉄物産の元専務執行役員の中村英一氏(67)が5月26日付で副社長に就く人事を発表した。同時に「無印良品」を展開する良品計画元社長の松崎曉氏(69)が社外取締役に就任する。

 中村氏は1979年に伊藤萬(現日鉄物産)入社。執行役員メンズ衣料第二部長、常務執行役員中国総代表を経て、専務執行役員として繊維事業本部を統括し、21年9月から同社顧問。同年9月からはバロックジャパンリミテッドのCEOアドバイザーとAOKIホールディングスの社外取締役を兼任してきた。

 松崎氏は1978年に西友ストアー(現西友)に入社。2005年に良品計画へ転籍し、アジア地域担当部長や中国担当部長など海外事業の要職を歴任して15年に同社社長。21年9月からは副会長に就き、22年11月に退任した。

 商社で繊維製品の生産を指揮した中村氏と、「無印良品」の海外事業で実績を持つ松崎氏によって経営体制のさらなる強化を図る。

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最新号の読みどころ

「WWDJAPAN」12月22日&29日合併号は、創業90周年を迎えた吉田カバン総力特集です。「ポーター(PORTER)」「ラゲッジレーベル(LUGGAGE LABEL)」「POTR」の3ブランドを擁し、日本を代表するカバンメーカー・吉田のモノ作りに迫ります。日本が誇る伝統技術を持つカバン職人たちと深い関係を築きながら、最先端の技術・素材を使い名だたるデザイナーズブランドとコラボレーションする相反した性質はどんな文脈から生まれているのでしょうか。