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スタイリスト・伊賀大介を作り上げたのは何か。カルチャー異常摂取の10代を経て、リアリズムのスタイリングへ

PROFILE: 伊賀大介/スタイリスト

PROFILE: (いが・だいすけ)1977年東京都西新宿生まれ。96年より熊谷隆志氏に師事後、99年に22歳で独立、スタイリストとしての活動開始。雑誌、広告、音楽家、映画、演劇、その他諸々「お呼びとあらば即参上」をモットーに労働。下手の横好きながら、文筆業もこなす。

「この映画、衣装がいいな」そう思ってクレジットを見ると、高確率で「衣装:伊賀大介」と記されている。カッコいい主人公やいい味出してる脇役はもちろん、老年の労働者からアニメのお姫様まで、根本では徹底してリアリズムを追求しながら、服で夢を見させるファンタジーもいける。近年では、ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」、アニメ「竜とそばかすの姫」、映画「PERFECT DAYS」、Netflix「地面師たち」のほか、2025年には映画「ファーストキス 1ST KISS」「8番出口」などを手がけた。2000年代初頭には「MEN'S NON-NO」や「smart」などの雑誌に頻繁に登場していたこともあり、誌面でその存在を知った人も多いはず。雑誌のスタイリングからキャリアをはじめ、映像に舞台、音楽や広告の現場と幅広く活躍するスタイリスト・伊賀大介の原点に迫る。

アントワープ6と鈴木則文イズムを語り合う高校時代

——10代の頃、カルチャーと触れ合う最初のきっかけは?

伊賀大介(以下、伊賀):育った街が西新宿なので、中学と高校の頃は、時間があると新宿の紀伊國屋書店からタワーレコード、古本屋とかに通ってました。家ではテレビで「BEAT UK」とかを観て。ひたすら本と音楽を摂取。プロレスも10代の頃から大好きでしたね。中学はサッカー部だったので、サッカーの友だちとプロレスの友だちはいたけど、本屋とかは基本一人で。ただ、いとこにロンドンカルチャー的なものに詳しい人がいて、ブリットポップが盛り上がる直前くらいのノリ、マンチェスター系のバンドの話とか、SUEDE(スウェード)のギターのバーナード・バトラーの話とかしてましたね。

——高校生になってからは、その延長で、より深いところに?

伊賀:どっぷりですね。当時のタワーレコード新宿店は、音楽だけじゃなく本もたくさん売っていて、海外の雑誌までめっちゃ充実してたんですよ。そこで「THE FACE」とか「i-D」といったイギリスのカルチャー誌を買ったり立ち読みしたり。「BEAT UK」でゴールディー(Goldie)という人がドラムンベースというのをやっているらしい、という情報を知って、タワレコで雑誌を見ると、そのゴールディーが表紙の写真をグレン・ルッチフォードが撮ってる、みたいな。雑誌のクレジットは必ずチェックしてました。あと、テレビだと真面目に大内順子の「ファッション通信」とかを観てて(笑)。ジョン・ガリアーノってカッコいいなとか、アレキサンダー・マックイーンって誰やねん!みたいな。

——往年の映画も大量に観ていたんですよね。

伊賀:一人で図書館に行って、レーザーディスクでアメリカンニューシネマを片っ端から。ベタに「俺たちに明日はない」、「真夜中のカーボーイ」、「イージー・ライダー」とか夢中で観てました。古本屋で買ってきた映画ガイドを熟読して、サム・ペキンパーとかマイク・ニコルズとか監督の名前をメモったり、「カッコーの巣の上で」のジャック・ニコルソンにしびれたり。映画だと、もっと後の話ですが、1996年にゴダールのリバイバルがあって、「ワン・プラス・ワン」を観て、60年代のローリング・ストーンズめっちゃカッコいいってなってる時に、カーティス・メイフィールドでソウルを、ジミ・ヘンドリックスの「エレクトリック・レディランド」のレコジャケでロックとサイケの融合などを感じたりして。あとは、ガス・ヴァン・サントとかジム・ジャームッシュとかの現代アメリカ流浪系も好きでした。

——同級生や友だちと映画や服の話はしなかったんですか。

伊賀:図書館とか本屋は一人で行ってましたけど、話す友だちはいましたよ。中学の同級生が新宿高校にいて、天文部に入ってるけど部活は全然やらず、いわゆる文化系リベラルな服好きなやつらが集まってたんです。そこでアントワープ6(アン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ダーク・ヴァン・セーヌ、ダーク・ビッケンバーグ、ドリス・ヴァン・ノッテン、マリナ・イー)の話をしたり、新宿昭和館で映画「トラック野郎」シリーズを観て、鈴木則文イズムについて語ったり。「仁義なき戦い」とか昭和の東映映画をバカにしてるやついるけどめっちゃおもろいじゃん、とか。

——その当時、同世代のカルチャーアイコン的な存在でグッときたのは?

伊賀:ちょっと上の世代のスターはケイト・モスですね。それまではナオミ・キャンベルとかクリステン・マクメナミーのような、ゴージャス系のスーパーモデルが中心にいたのに、グランジ繚乱の時代になって、ケイト・モスが出てきた。そこから写真家のデヴィッド・シムズとかコリーヌ・デイにハマって。いまだにコリーヌ・デイの写真集「Diary」は大事に持ってます。国内だと、雑誌は「CUTiE」一択、みたいな感じで、モデルは市川姉妹の全盛期、写真はホンマタカシ、漫画は岡崎京子。しばらくするとHIROMIXも出てきて、俺、同い年なんですけど、この人は天才だと思いました。もちろん、高橋恭司とか佐内正史の写真集も、なかなか買えないけど嶋田洋書とかリブロでずっと眺めてました。買うのは「CUTiE」と「週刊プロレス」、あと「危ない1号」とかのサブカル雑誌。自分では何もしてないのに、とにかく知識と自意識だけはパンパンで。このまま社会に出るのはまずいと思って、高校卒業した後は、猶予期間のつもりでエスモードに入った感じですね。

モンディーノとジュディ・ブレイムに憧れてスタイリストの道へ

——服飾専門学校のエスモードに進学したのは、デザイナー志望で?

伊賀:というより、なんとなくファッションの方向に進みたかった。高校の時にネオ・パンクのムーブメントがあって、ジャン・バプティスト・モンディーノの写真に、スタイリングがジュディ・ブレイム。これに強烈に憧れて。同時期に「スタジオ・ボイス」にスタイリストの水谷美香と写真家の七種諭が載っていて、なんちゅうカッコいいカップルなんだと思ったのと同時に、スタイリストという職業も知って。俺もこういう仕事したいと。

——入学したエスモードはどういう印象でした?

伊賀:まわりはみんなデザイナー志望だったので、絵はめちゃ上手だし、パターンも引けるし、ミシンも使えるし、最初これはまずいと思いましたね。ただ、授業以外の時間で同級生としゃべってると、いわゆるサブカルチャーの話題はあんま通じなくて。こっちは東映とウォン・カーウァイと平成ガメラとたけし映画と昭和プロレスと海外ボクシングとパワーポップと黄金期「ヤングマガジン」と「別冊宝島」と「狂い咲きサンダーロード」のゴッタ煮ですから(笑)。服好きだと思って、イヴ・サンローランがカトリーヌ・ドヌーヴに衣装を提供した映画「昼顔」の話をしても、みんな「???」って感じで。ただ、先生とは話が通じて。その先生には「あんた世の中なめ腐ってるから、社会の荒波に揉まれたほうがええわ(笑)」とか言われましたね。そんな時に、エスモード・パリ出身で、その時は日本でスタイリストをやっていた熊谷隆志さんと出会うんです。

——伊賀さんの師匠ですね。

伊賀:当時は熊谷隆志の存在も知らなかったんですけど、エスモードの卒業コレクションに熊谷さんが来たんです。上はサボタージュの硫酸ボロボロパーカーで、下はフレンチミリタリーの古着のパンツ、靴はワークブーツで、ガス・ヴァン・サント的な、汚いけどカッコいい服を着ていて、すげえいいなと思って。アシスタントの候補として先生に紹介してもらったら、熊谷さんも「やる気があるなら来るか」と言ってくれて、その日に学校やめて、2日後に熊谷さんのアシスタントとして仕事を手伝い始めました。

——行動力がハンパないですね。

伊賀:その時、熊谷さん26歳、俺19歳。お互い若かったので(笑)。最初の仕事は「ヤングサンデー」のグラビア。モデルは菅野美穂さんで、写真家は平間至さん。菅野美穂さんは当時、ドラマ「イグアナの娘」とかで大人気だったけど、俺としては「うおぉぉぉ! 『MOTOR DRIVE』の平間至じゃん!」「撮り方かっけー!!」みたいな(笑)。そこから3年間、リアルに休みなしでアシスタント稼業ぶっ続けです。

——過酷なアシスタント仕事の中でも、手応えはあった?

伊賀:どこの業界でも同じだと思いますが、アシスタントとしては優秀なのにスタイリストにはあんまり向いてなかったり、逆に、アシスタント仕事はダメダメなのにスタイリストになった途端バリバリ仕事できる、みたいなことはよくあって。俺はなぜかどっちもできたんですよ(笑)。アシスタントの3年間、いろんな人と服とか音楽とか映画の話をしていく中で、「お前ほんと洋服以外は詳しいな(笑)」って言ってもらうことも多くて。肉体的には死ぬほど辛かったけど、この世界でやっていけるかもって。何より、スタイリングは熊谷隆志、被写体は当時日本で一番カッコいい浅野忠信、写真はニューヨーク帰りでキレキレの若木信吾、みたいな仕事を毎日やっているのは超刺激的でした。直接仕事で関わらなくても、「ライド・ライド・ライド」の藤代冥砂が世界放浪の旅から帰ってくる話を聞いたり。まるで昭和の未知のプロレスラーみたいに(笑)。ILLDOZERとか「DUNE」の林文浩さんの一派、写真家の鈴木親さん、そういう自分が通ってこなかったザ・東京を感じる場面もたくさんあって。金はいつも1000円くらいしか持ってなかったけど(笑)、カッコいい大人たちに囲まれて、毎日めっちゃ楽しかった。

パリコレまんまのスタイリングと流行のサイクルに疑問

——そして22歳で独立。かなり若いですよね。

伊賀:若すぎますよね。でもそれはある日、師匠からガソリンスタンドで給油中に「お前、半年後に独立させっから」と、こちらを見ずに、前を向きながら言われて(笑)。映画みてえだな、と(笑)。あとから聞くと、「大介そろそろ独立させてみたら?」とか、まわりの先輩たちからの声もあったみたいです。それと、これは功罪あるんですけど、あの頃(1999年)、スタイリストのブームがあったんですよね。雑誌で私物を紹介したり。

——2000年頃、伊賀さんは雑誌に出まくってましたよね。

伊賀:アシスタントの途中から、ちょこちょこ取材みたいなものをしてもらって、小遣い稼ぎしたり。独立してからは、とにかく出まくってましたね。

——その当時のこと、今ではどう振り返りますか。

伊賀:うーん……核心ついてきますね(笑)。正直、若い時でよかったな、という。インターネットが未発達で、SNSがなかったのも超デカいです。あったら、いろいろな意味で恥ずかしすぎて、終わってっかなーと(笑)。20代前半だから、イキリまくって調子に乗ってたのも、なんとなく許されていたというか、ギリ若気の至りということになっているのかなと。いや、本人的には、本業はもちろん真面目にやってて、勢いはあったと思うんですが、あまりにも急速に立ち位置が変わりすぎましたね。キャラ化してしまったというか。

——街には伊賀さんの格好を真似した若者が溢れてましたからね。

伊賀:ネットがないので、タイムラグがあったのがおもろかったですよ。バンダナ流行らそうと思って雑誌で紹介したら、2週間くらい経ってほんとに流行ったり。

——独立してすぐに仕事は軌道に乗ったんですか。

伊賀:知識と理想のスタッフィングは溜め込んでいたので、こういうテンションでファッションページやりたいっていうネタは死ぬほどあったんです。雑誌の切り抜きとか、撮ってほしい写真家のリストもめちゃめちゃ作ってましたし。そういう意味では、いつでも来い!っていう感じではありました。

——伊賀さんが編集まで兼ねるようなページもあって、モデルもプロではなく友だちを呼んだりしていたんですよね。

伊賀:恵比寿の「みるく」に友だち集めてTシャツ着せて、ギャラは缶ビールだけ、みたいなことやってましたね。雑誌業界も元気あったので、エディトリアルはめっちゃ楽しかった。でも、雑誌のスタイリング仕事をメインにしてたのって、実際2年くらいなんですよね。しかも、22〜23歳のガキのやることなので、当然ファッションの本筋ではなく、ストリートファッションばっかり。なので、24歳くらいからはちゃんとパリコレ行こうと思って。最初は入場パスなんて持ってないから、知り合いについて行って忍び込む感じで潜入してました。

——パリコレに行くようになってからは、ハイファッションも手がけるように?

伊賀:触るには触りましたけど、結局のところはルーティン化してしまうという構造にガキなりに気付いて、疑問を抱いてしまったんですよね。本場の服がカッコいいのはたしかだけど、雑誌になると、モデルは外国人で、コレクションのルックそのままのスタイリングで、今シーズンはミリタリーです、みたいなことを発信し続けてるだけでいいのかなって。それでも、俺のことを知ってくれて好きになってくれた若い子は、その雑誌を見て必死にバイトして10万くらいする服を買うわけじゃないですか。なのに、半年後には次の流行がきて「もうそれはダサいです」って。これを一生やっていくのは俺にはキツイなと。あとは、日本の市場がなめられてるから自由にスタイリングできないのも問題で。イギリスとかなら自由に組み合わせできるのにな、とか切なくなったりして。

「ジョゼと虎と魚たち」のモッズコートは私物

——そうして徐々に雑誌のファッションシューティングからは遠ざかるようになり。

伊賀:ですね。あと、きっかけになったのは椎名林檎さん。雑誌で好きだ好きだ言ってたら本人から仕事が来て。最初は「真夜中は純潔」のミュージックビデオですね、2001年かな。

——あれ、でも「真夜中は純潔」のミュージックビデオはアニメーションですよね?

伊賀:そう、最初は林檎さん本人でスタイリングしてフィッティングまでしたんだけど、とある事情で、最終的にはアニメになったんです。なので、アニメのキャラクターが着ている服は、その時に俺が集めた衣装が元ネタになってます。とにかく林檎さん仕事から、また世界が拡張した感じがあるので、そこは今でもすごくエポックだったなーと思います。マジ感謝(笑)。

——初めて映画の衣装を手がけたのが、2003年公開の「ジョゼと虎と魚たち」ですね。

伊賀:当時イケイケだったアスミック・エースのプロデューサーの人から声かけてもらって。雑誌の「switch」とか「H」を読んでるような人に映画を観てほしいっていう戦略があったみたいですね。

——「ジョゼと虎と魚たち」で、主演の妻夫木聡が着ているモッズコートが伊賀大介のスタイリングだと知った時は、妙に納得しました。

伊賀:だって、あれ、俺の私物ですからね(笑)。俺がスタイリングしたのはメインキャストの3人だけだったんですが、それでも予算が全然なくて、買うものは池脇千鶴ちゃんのジョゼに全部突っ込んで、妻夫木君は俺の私服でなんとかするしかなかった。あと、当時は俺も25歳で若くてイカれてたので、くるりの「ばらの花」を延々リピートしながら、ジョゼと同じように自分の足を縛って、夜中に手作業でコート縫ったりして。だけど、映画にはダブルスタンバイというのが必要で、衣装は2着用意するのが普通なんですよ。そんな業界の常識も知らず、自信満々で自作のコラージュした手縫いのコートを現場に持って行ったら、「もう1着は?」とか言われて。あの時はシビれましたね。でも俺、怒られるのは嫌いじゃない、むしろ好きなんですよ。

——ラーメンズの衣装を手がけるようになるのも、この頃からですか?

伊賀:そうです。最初は、小林賢太郎プロデュース公演 「Sweet7」(2003年)ですね。賢太郎さんに会ったのも林檎さんがきっかけ。「短篇キネマ 百色眼鏡」っていう短編映画の仕事をした時に、出演者として賢太郎さんがいて。映像は空き時間が長いから、そこでいっぱいしゃべって仲良くなって。その後、ラーメンズの舞台衣装を担当したりしているうちに、シス・カンパニーから依頼がきて、最初の舞台仕事は「ダム・ウェイター」(2004年)という作品です。それから、ほかの舞台の衣装も徐々にやるようになりました。映画とか舞台の現場はファッション業界の人たちとはノリも話題も違うので、それがめっちゃ新鮮でよかったですね。

あえてリアリズムを無視した「大豆田とわ子と三人の元夫」

——映画のスタイリングでは、どこに重きを置いていますか。

伊賀:やっぱり説得力ですよね。俳優が最初に服を着て登場した時に「あ、あいつだ」と思ってもらわないと始まらない。そのためには言葉が重要。50万円のコートを着せるにしても、1000円の古着にしても、説得力がないと。だから脚本は当然読み込みまくるし、監督とはとことん話し合うし、演じる俳優ともきちんと言葉を交わします。キャラクターについても、どの沿線に住んでいて、実家なのか一人暮らしなのか、裕福なのかバイト暮らしなのか、そういうディテールはめっちゃ考えます。

——2011年の映画「モテキ」も、伊賀さんの仕事が光ってました。

伊賀:映画の前に放送されたドラマ版でも大根(仁)さんから声かけてもらったんですけど、どうしてもスケジュールが合わなくて、できなかったんですよ。なので、ドラマ版は俺の元アシスタントがやることになって。優秀なやつなんですけど、主人公の藤本幸世がゆらゆら帝国のTシャツを着ていて、セリフでも「ずっと着てるんだ」って言ってるのに、そのTシャツがパリッとしていて。それがちょっと違うなと思ったんですよね。こういう映画こそ、ディテールが命なんだから、映画版は満を持して徹底してやりました。

——一方ドラマの場合は、映画と違って1時間×12話あったりするので、統一感が難しいのでは。

伊賀:ポーズ数が多いと、全部を買い取って直したりするのは難しいので、その都度リースしているとバラバラになっちゃうことはありますね。いつも同じ服ばっかり着てるキャラクターとかならまだしも。そういう意味では、逆に「大豆田とわ子と三人の元夫」(2021年)は確実に狙いにいきました。散々リアリズムだとか言っておきながら、とわ子のスタイリングはファッションショーみたいになるように、あえて着替えまくる。それに、あの時はコロナ禍で、ネットショッピングくらいしかやることない時期だったので、せめてドラマでファッションを楽しんでほしかった。それで、とわ子(松たか子)のスタイリングはファッション畑で活躍している杉本(学子)さんと一緒に担当して、俺はかごめ(市川実日子)と元夫たちもスタイリングしました。

——服と着こなしを見ているだけでも楽しいドラマでした。

伊賀:なので「大豆田とわ子と三人の元夫」を観て、同じようなことをやってくださいって依頼してくる人がいたりするんですよ。あれは超イレギュラーで、あえて狙ってやってるんだから、普通のドラマであんなにファッショナブルで着替えまくってたらおかしいでしょ。だから、そういう仕事は断ったほうがいいよって、杉本さんにも伝えました(笑)。

——リアリティーを追求する上で、スタイリングをする対象が、伊賀さんのパーソナリティーに近かったり、あるいは友だちにいそうとかならまだしも、まったく関わりのない世界で生きているような人物だった場合は、どう衣装を考えるのでしょうか。

伊賀:もちろん関わりのない世界はあるけど、その世界自体は存在してるわけですよね。だったら、現実のどこかにはあるはずで、そいつが着てる服も存在する。だったら、行ける場所なら行ってみるし、何かしらの手がかりをもとにたどって当てるしかない。それこそ、今はインスタとかもあるし、どうにか当てられるもんですよ。でもそういう場合は、服だけ用意してもダメで、髪型とかメイクとか、振る舞いのテンションとかも重要なので、俳優部との共同作業になってきますよね。

——依頼が来たとして、伊賀さん的に「これは難しい」と思うスタイリングは?

伊賀:若いラッパーのクルーとかは難しいかも。仲間内だけのコードがあるし、そのへんじゃ売ってない友だちのブランドの服を着たりしてると、そもそも手に入らないですからね。でもそういう依頼が来たら、詳しい別の人に任せたり、本人たちの私服を借りたりするかな。「あんなやついねーよ」とか言われたら、本気でやっている人たちに失礼になっちゃうので。

——それと、服って単体ではなく、「着こなし」のほうがむしろ重要だったりもしますよね。

伊賀:それはめっちゃあります。例えば、カッコいいポートレートを撮る仕事で、こっちも本気で服を選んでいったとしても、モデルが現場に着てきた私服のほうがいいと思ったら、その服で撮影してもらうのもスタイリストの仕事ですからね。あとは、スタイリングによって、雑誌の表紙一発で「いいじゃん!」ってなるような、パラダイムシフトが起きる瞬間がある。そういう仕事を見るとハッとしますよね。

50歳を前に実現したヴィム・ヴェンダースとの仕事

——中年についてよく言われる、もうやり切った、飽きてきた、みたいなことはないですか?

伊賀:そういうのはないですね。ただ、映画「PERFECT DAYS」でヴィム・ヴェンダースと仕事した時は「50歳を前に、ここに来たか」とは思いました(笑)。趣向としてはポン・ジュノのほうがまだ近いと思ってるんで。でもこれも不思議な縁で、俺が担当した日本の映画を観てとかじゃなく、ヴィム・ヴェンダースが細田守監督とか日本のアニメ映画を観ていて、俺も「おおかみこどもの雨と雪」とかを担当していたので、アニメのスタイリングやってるならおもしろそうじゃんってところからアサインしてもらったみたいなんですよね。

——ここ何年かで、仕事のフェーズが変わってきたりとかはありますか?

伊賀:基本はないですけど、広告の仕事が増えてきたっていうのはあるかな。きれいごと半分で言いますけど、広告はただカッコいいだけじゃダメで、膨大な時間と人とお金を注ぎ込んで作り上げているものだから、よりチームの一員になることが大事っていうか。だいぶ大人になった感じ(笑)。

——伊賀さんは後進の育成もしてますよね。

伊賀:元アシスタントたちは、みんなちゃんと独立して、売れっ子ですよ。広告で幅を利かせている杉山まゆみ、SHISHAMOのミュージックビデオとかやってる森川雅代、小演劇界を牛耳る髙木阿友子、「花束みたいな恋をした」とかやった立花文乃、舞台版「千と千尋の神隠し」とかで世界にいった中原幸子、あのちゃんのスタイリングやりまくってる神田百実。全員がちょっとずつ俺の遺伝子を受け継いで、違うジャンルで食い合わずに活躍していて、うれしいですね。

——では最後に。日本のファッションブランドで、いいなと思うデザイナーはいますか。

伊賀:「オーラリー(AURALEE)」とかは的確だなと思いますよ。とどのつまり、川久保玲が一番すごいじゃん的な、みんなが「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」最強説の呪縛を越えられなかったところに、カマさないまま別ルートで上り詰めた感じ。映画監督でいうと、黒澤明、溝口健二、木下恵介、小津安二郎という四天王の影響がいまだに残っているところに、令和に別角度から濱口竜介がやって来た、みたいな。40年の歳月がかかって、やっと時代が変わったというか。だって「オーラリー」は、日本人が着ても欧米人が着ても同じくらいカッコよく着こなせると思います。カラフルだし。しかもこの先10年とか20年経って、「オーラリー」の服が古着として出回る世界線まで想像できる。親父が着てたのを息子が着るとかね。まぁでも川久保玲はマジで偉大だと思います。あれをビジネスとして成功させたってことも含め。そういう意味では、マーク・ジェイコブスもかなりすごい。って、あんまりしないけど、こういう本流のファッションの話も一応はできるんですよ(笑)。

PHOTOS:MAYUMI HOSOKURA

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