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人工クモの糸は、日本を救う「蜘蛛の糸」になるか
 2017年10月、山形県鶴岡市にある人工クモの糸で知られるスパイバーの本社に初めて訪れました。「WWDジャパン」の2000号記念特集の一つ、次世代リーダーにフォーカスする「ネクストリーダー」企画で、関山和秀取締役代表執行役(以下、社長)にインタビューするためです。
 
 人工クモの糸は米国軍事研究機関の一つDARPA(アメリカ国防高等研究計画局)などが2000年代に巨額の予算を投じたプロジェクトを発表するなど、以前から一部の研究者や繊維関連の企業からは注目されていました。軍事用途として開発された背景は、石油を使わず自然界に豊富なタンパク質を原料とすること、それまで再現不可能といわれた、よく伸びて強靭なクモの糸を再現できるためでした。石油は貴重なエネルギー源であると同時に、重要な素材の原料でもあります。人工クモの糸の開発に成功すれば、戦時中にはある種の貴重なエネルギー源の節約につながる——そう考えられたのです。
 
 ただ実際には、高いスペックを出せなかったり、遺伝子工学から分子工学、バイオインフォマティクス(生命情報科学)、高分子化学、繊維工学など他分野にまたがる研究領域をうまく統合できかったりと、思うような成果をあげられず、それほど話題にも上らなくなっていました。そこに彗星のように現れたのが日本発のスパイバーです。15年10月の会見では、ずっと夢の繊維と言われていた人工クモの糸で作ったゴールドに輝く“ムーンパーカ”を携えていました。それを見れば量産化とまでは至らないもののすでにラボレベルを脱して、ある程度の生産レベルにまで到達していたのは明らかでした。
 
人工クモの糸の本質はある種のエネルギー革命と言えます。1年間に生産される繊維素材は約9000万トン。そのうちの7割を占めるのが石油を原料とする合成繊維です。中でも合成繊維の大半を占めるポリエステル(PET)は、単に繊維の中の王様というだけでなく、プラスチック素材の中でも最大の生産シェアを維持しています。人工クモの糸がこうした合繊素材を代替できれば、石油の消費量を劇的に削減できる。また、その製造法は熱をそれほど使わないため、石油から合繊素材を作るときに比べても大幅にエネルギー消費を削減できるとも言われています。
 
 ただそのスパイバーも、当初2016年としていた発売日がずれ込み、関山社長もメディアの前にしばらく姿を現さなくなっていました。17年10月に取材したのは、そんな時期でした。インタビューでは発売日がずれ込んだ理由を明言しなかったものの、周辺取材などを総合すると糸にした後の工程に問題があったようでした。人工クモの糸は、見た目は普通の合繊とそれほど変わりません。ただ、中身は全く違うもの。糸は衣服になるまでに長い工程があります。撚りをかけ織って、その後には染色し、最後に薬剤や熱で仕上げを行います。そうした工程は同じ合繊のポリエステルやナイロンでも違いますし、コットンやウールなどの天然繊維になるとさらに違います。スパイバーが“ムーンパーカ”の製品化に時間がかかったのは、こうした長い工程をクリアする必要があったからです。
 
 世界的にも高い技術水準にあると言われる日本のテキスタイルの製造業者ですが、これほど根本的に新しい繊維素材はこの数十年、出合ったことはありませんでした。ある繊維メーカーの開発担当者は「糸や生地を加工するための温度や薬剤、染料などの細かいデータやノウハウはほぼゼロ。数年前に糸を分析した瞬間に、これは大変なことになると思った」と振り返ります。そのスパイバーとゴールドウインの「ムーンパーカ」の発売がいよいよ近づいてきました。人工クモの糸は、1953年に工業化され、現在は全繊維の半分以上を占めるポリエステルに匹敵する画期的な新素材です。米国でもシリコンバレーに拠点を置き同様にタンパク質からスパイダーシルクを生産するボルトスレッズが、ステラ・マッカートニーと組んで新しいコレクションを発表していますが、あくまでウィメンズのドレスが中心で、本来期待されている強靭なスペックの糸や、複雑な加工やノウハウが必要な高機能ウエアではありません。
 
 この2年間スパイバーとゴールドウインは糸を進化させると同時に、日本の産地企業群と試行錯誤を繰り返しながら、完成に近づけてきました。この試行錯誤の中には、画期的な新素材の加工ノウハウがぎゅっとつまっており、それらはそのまま今後の繊維産業の強靭な武器になるはずです。繊維産業は、この数十年にわたって下り坂が続いてきました。スパイバーの人工クモの糸はまさに目の前にもたらされた、細いけれども強靭な「蜘蛛の糸」になりそうです。
 
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横山 泰明
「WWDJAPAN」記者
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