ファッション

“ファッション業界の元気印”、死す 世界中から届く山本寛斎を悼む声

 ファッションデザイナーの山本寛斎が7月21日、急性骨髄性白血病により死去した。76歳だった。1971年に日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催して以来、和洋折衷でアバンギャルドな作風や、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)への衣装に注目が集まり、世界にその名を轟かせた。90年代からはイベントプロデューサーとしても活躍。2004年には「世界中に“元氣”を発信したい」という思いで、ファッションやパフォーマンスを融合した「日本元気プロジェクト」を開始。親交の深い芸能人やアーティスト、アスリートらをゲストに迎え、世界に向けて熱いエールを送り続けてきた。7月31日開催のショーを前にこの世を去った山本氏に、多くの悼む声が寄せられた。(この記事はWWDジャパン2020年8月3&10日合併号からの抜粋に加筆しています)

 1971年にロンドンでコレクションを発表されて、その後パリ、ニューヨークでも披露されていた山本寛斎さん。デザイナーとして、同時期に海外で活動していた僕たちは、ある意味、同志のような存在でした。寛斎さんの元気な在りし日のお姿を偲びつつ、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。パフォーミング・アートプロデューサーとしても、活動の幅を広げられて、いつもパワフルで“元気”をいただいておりました。

 世の中が落ち込んでいるときに、元気印の寛斎さんがいなくなると日本はより暗くなります。残念です。昔、遊び仲間でデザイナーの浜野安宏さんが船で渡米することになり、みんなで横浜の桟橋まで見送りにいくと、見知らぬ男の子がすごい勢いて私に走り寄ってきました。「すいません、裏を見せてください」といきなり私の服を掴むんです。そのとき私はショッキングピンクに中はグリーンのバラのプリントという超ド派手なジャケットを着ていました。男の子の不躾な態度に驚きはしたけど、なぜか腹は立たなかった。というのも実は私も自慢の服で、なにより男の子の目が真剣そのものだったからです。この痴漢もどきの若者が山本寛斎さん。裏を見てよほど感動したのか、「是非、弟子入りさせてください」と真顔でいう。「なら、六本木のアトリエに遊びに来たら」と行ったら、翌日本当にやってきた。彼は大学1年生。24歳の私は偉そうに「親の許可がなかったらダメ」と断ると、「僕、勘当されていますから無理です」。結局、その真剣さにほだされて入門を許可。それ以来、寛斎さんは私を師匠なんて呼んでいました。

 寛斎君は独自の美意識でイマジネーションをデザインに置き換える天才。彼のポップな表現力は時代を超えて人に強烈なインパクトを与え脳内に焼き付ける。デヴィッド・ボウイに与えた作品は素晴らしい。永眠につかれた寛斎君の魂よ安らかに。 寛斎君と私は1960年代後半、西武渋谷店のカプセルコーナーに向けた服作りと年2回のショーを行なった。私と寛斎君は真逆なデザインコンセプトを持っているのを強く意識して、それを楽しみにかえることで、それからの未来に向かった時代だった。いまから5年前、偶然私の弁護士事務所でばったり寛斎君に再会した。これも不思議な縁と強く感じたのを鮮明に記憶する。余談だが、弁護士氏によれば寛斎君は私のことを良きライバルと言っていたとか。

 山本寛斎さんは、私が手掛けたイギリス・ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館のスコットランド分館のダンディーをとても気に入ってくれて、是非イベントを開催したいと言っていました。今まで彼がロシア・モスクワなどの各都市で開催してきたイベントの集大成にしたいと思っていたようです。寛斎さんが病気になる直前まで、一緒にその構想について話をしていました。彼が病気から復活したら実現できると思っていたのに、とても残念です。私は、彼の直観的なスピード感に常に励まされてきました。寛斎さんの頭の中には国境がない。最近、建築やデザイン業界で世界に出ていくのに引っ込み思案な若者が多い中で、日本が今、本当に必要とする人でした。デザインに関しても世界に向けて勢いのある強い直球を投げていたから、デヴィッド・ボウイの心もつかめたのだと思います。

 私は彼が私の弟子になりたいとやってきた日のことを、少しだけ話します。白いブレザーを着て司会をやっている写真を見せてくれて、「僕は司会もやれるのです」と白い歯を見せて笑った。まだ貧しい頃だからあまり給料も出ないけどそういうチャンスが回ってきたら、がっぷり取り組んでくれればと、会社(日大在学中に設立した造像団という会社)に置いていた。十分にブレークさせないまま、私が1964年大学卒業と同時にアメリカ貧乏旅行にでた時は横浜の埠頭までテープを持って送りに来た。その時コシノジュンコさんも石津謙介さんもいた。これを機に、もっとファッションをやると言ってコシノジュンコさんの弟子になった。そのあとの彼の活躍は誰もが知るところだろう。

 あの初々しい山本寛斎を知っている私は大仕掛けのイベント、例えばオリンピックの開会式などで爆発させてやりたかった。コロナがなければ彼は何か大きな噴水をあげられたかもしれない。命も保てたかもしれない。私より3歳も若かったらしい。来年80になる私は、彼に何かデカいことを頼みに行きたかった。

 私がロンドンに魅せられていた頃、寛斎さんと一緒に時代の空気を感じていました。私の中でロンドンのファッションとデヴィッド・ボウイと寛斎さんはずっと一緒にいます。デヴィッドが初めてジギースターダストの衣装を見てとても喜んだときの、寛斎さんの輝いたお顔が忘れられません。

 初めて東京を訪れたときに、寛斎さんのお店を訪れました。彼の服から力強さと魔法を感じ、その日に買った全ての服を今でも大切に持っています。それらは私がファッションデザイナーになるきっかけにもなった大切な宝物です。去年は寛斎さんとのコラボレーションが実現しました。自身と楽観生を兼ね備えた象徴的なデザインになり、私の夢が叶った瞬間でもありました。私が彼から刺激されたように、「日本元気プロジェクト スーパーエネルギー!!」は多くの若いデザイナーたちを鼓舞すると思います。寛斎さんは私に夢を与えてくれました。皆さんも夢に向かって生きてください!

 1980年、17歳のとき、私は山本寛斎さんに出会う機会に恵まれました。当時ニューヨークのパーソンズ美術大学の学生で、彼の並外れた創造力の大ファンでした。私はほかの学生とは大きく異なり、非常に社交的で意欲的で情熱を持っていて、エネルギーに満ちていました。好奇心旺盛でファッションの勉強に飢えており、憧れの人たちから学びたかったのです。ルームメイトの仕事先だったジュエリーデザイナーのロバート・リー・モーリス(Robert Lee Morris)のおかげで初めて彼のショーを見て、本人に会うこともできました。

 寛斎さんは私のデザインへの情熱に共感してくれ、次のコレクションのテーマとなる空想上の“寛斎レストラン”を祝した「ハプニング/アフターパーティー」の企画と準備の機会を与えてくださいました。その頃、私の才能を見ぬいてくれた寛斎さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。彼からデザイナーとして羽ばたくための翼をいただいたと思っています。親愛なる友人がいなくなるのは寂しいです。

 山本寛斎さんが描くユニークな日本文化は魅惑的です。日本の固定観念や“アール・ド・ヴィーヴル(仏語で暮らし方や生き方を表す言葉)”を超越した表現方法は、ファッションという枠組みを超えています。彼が「ルイ・ヴィトン」のために私と協業すると決まったとき、とても光栄に思いました。彼はとても誠実で、寛大な人でした。

 もし、寛斎さんがデヴィッド・ボウイの衣装を担当していなかったらどうなっていたのだろう。ボウイがあの時、あの片足のボディースーツを着用することになったことは奇跡的だと思います。

 寛斎さんには、沢山のインスピレーションと刺激、教えををいただきました。いつも背筋を伸ばし笑顔で、ストレートに言葉をいただき、大切なことを伝えたいときには時間を作り、相手の顔を見て伝えてくださる。さらに伝えたいことがあるときには筆を取り、気持ちをしたためて下さった。人と人が持つ無限のエネルギー、本能や情、化学反応を大切にする方でした。 

 コレクションや日本元気プロジェクトでは、「元気でいよう!元気には夢や希望、仲間との絆が不可欠」と、人間の躍動的な生命力の持つ力を教えて下さいました。TBS系列「林先生の初耳学!」内の「パリコレ学」では、パリコレを目指すモデルへのアドバイスに「パリコレ以前に、自分が"今"をどう楽しむかだ!」と、モデルとして以前に大切なことを教えてくださいました。 自分に限界を作らず、挑戦し、楽しむことを教えてくれた寛斎さんの精神は、心に生き続けます。天国でもそのエネルギーで、みんなを巻き込むのでしょう。

 ぼーちゃんのぱぱ、山本寛斎さん。あなたに出会えた事で私は自信が持てました。私も音楽、アートでこの世界を笑顔に出来ると信じてる一人です。ぼーちゃんのぱぱの行動力をとても尊敬しています。ぼーちゃんのぱぱがやり続けた事、ここで終わらせない!みんなでもっともっと世界に元気を届けるから!あたし達も100%全力でやりきるからね!少しだけ会えない時間はあるけどまた一緒に叫び合って笑いあう日まであなたの希望を背負って皆んなで力を合わせていくね!さぁまだまだこれからだ〜!

 山本寛斎さんは一つの時代を作った偉大なデザイナーであり、一点の曇りなくクリエイトしていくということに人生をかけた方だと思います。一つの時代の終わりを告げられたような、虚無感を覚えます。ご病気が分かったときにいただいたお手紙は大きなA3の厚紙に長崎のハウステンボスでショーを開催された時の写真をご自身で切り貼りし、イラストも添えて、とても心の篭ったものでした。温かい心が伝わりましたし、ご病気が良くなられることを心から祈っていました。ハウステンボスでのショーでは、私が初めてランウエイを"歩く"のではなく表現者として、ウエアリスト山口小夜子さんのように舞うように歩いた。そんな私を認めてくださり、涙までながしてくれた寛斎さんが忘れられません。いつも笑顔で、そしてクリエイションには真剣に真摯に向き合い、これからのファッションを案じておられました。そんな寛斎さんの想いを、私は心の中に宿してこれからのファッションの世界に生きていきます。今まで温かく見守ってくださって、ありがとうございます。そしてこれからも、私たちを見守っていてください。

 資生堂のCMで山口小夜子さんの不思議な魅力に取り憑かれてた中学生の僕は、そこからパリコレを知り、ケンゾーさんやミュグレーやモンタナやサンローランを知り、寛斎さんも知りました。ブティックに母に連れて行って貰った僕はすっかり寛斎さんの魅力にはまり、ねだって買って貰った服のことは忘れられません。高校生になって晴れてバイトがオッケーになった僕は、バイトしては高額なのにも関わらず、寛斎さんの服を買い求め、寛斎ボーイなどと呼ばれるくらいいつも寛斎さんの派手な服を学ランの下に忍ばせて着ていたものです。

 ケンゾーさんの影響をとても受けている僕ですが、自分で着るのは寛斎でした。その頃寛斎さんは、エンターテインメントなショーを精力的に、国技館や武道館、ありとあらゆるところでやっていて、その演劇的なアプローチは確実に今の自分の何かを形成しています。カッコ良かった。僕にとっての永遠のミューズの小夜子さんが舞い、心中したり、太鼓を叩いたり、それこそ夢の様に素敵でした。そう寛斎さんは僕にとってスーパースターでした。文化に入って装苑賞に挑戦。いつも寛斎さんが選んでくれました。装苑賞をとることはできませんでしたが、いつも寛斎さんが褒めてくださった。自分がデザイナーになってからお目にかかることがあったときもいつもポジティブな声がけをしてくださってとても励みになりました。 小夜子さんも寛斎さんも旅立たれてしまいましたが、同じ時代に生きたものとして、あのファッションの熱を次に伝えていかなければと思っています。

 私がニューヨークから日本に移ってきたばかりだった2009年、当時「WWDジャパン」編集長だった山室一幸さんのご紹介で寛斎さんに出会いました。「日本元気プロジェクト」にお誘いいただいたとき、寛斎さんがとても情熱に溢れていたのを覚えています。そして、私は寛斎さんによる力強く美しい作品のファンで、特にデヴィッド・ボウイや山口小夜子、レディー・ガガへの衣装に憧れを抱いていました。「日本元気プロジェクト」には2012年から8年間ご一緒することができ、文化、芸術、ファッション、音楽、ダンス、スポーツ、エンターテインメントを通して、人間の精神の美しさを見せていただきました。寛斎さんの優しさと愛情に感謝しています。

 一世代上の人だったが、良き時代に生きたファッションデザイナーでツイている人だなあと思っていた。今みたいにデザイナーにマーケティングなんてものが要求されない時代で、ある意味好き放題に思いつきのままデザインしていたが、それがちゃんとシャレになっていたのがスゴイ。田舎から上京して19歳の時に西武渋谷店で初めて買った花札がプリントしてある黒の Tシャツが忘れられないな。「こんなんでいいのかな?」と思ったもんだよ。デザイナーとして冷静に見てみると「ケンゾー」や「イッセイ ミヤケ」に対してはコンプレックスがあったのではないだろうか。それでプロデューサーの道を歩んだのだろうが。まぁ、ファッション業界の岡本太郎みたいなもので、体裁を気にせず元気を振り撒いた人だった。新幹線で同席したこともあるけど、ずーっと話しぱなしで、何を言っているのか分からないような人だったな(笑)。「フィッチェby ヨシユキコニシ」の商標を買ってくれて応援してくれたこともある。本当に生き様が素晴らしくてうらやましい人だったなあ。

 いつも「気」の字を「元氣」と記していた寛斎さん。

 当時担当バイヤーをしていた伊勢丹新宿店TOKYO解放区でのイベントを通じて、他にはかえがたい貴重な経験をいただきました。 人やファッションへの深い愛情、温かい心。 いつどんな時も前向きで決して弱音を吐かず粘り強くベストを尽くすこと。 言葉にすると一見当たり前のことを、終始一貫して常にしていた人。イベントの度にしていた勉強会ではいつも店頭のメンバーや関係スタッフ全員へ、熱心に全ての商品を一つ一つ丁寧に語ってくださり、 熱意とファッションへの深い愛を持って接してくださるその姿勢。どんな方々とも分け隔てなく接してくださるところ。イベントが終わるたびに直筆でお礼状をくださること。そして私自身の変化のタイミングの時には、不安がっているであろうと察してくださり、お仕事を超えたプライベートの場で、寛斎さんと高谷さん(寛斎さんの長年の敏腕右腕の方)とでお話しをきいてくださった。あんなお立場になられても、こんないち企業のいちバイヤーのことを気にかけてくださっているということに 驚きと共にありがたさを感じました。

 ファッション業界に残された私たちが今すべき事は、寛斎さんが残してくださった心、 ファッションを通じてみんなを“元氣”にすること。 ファッションで彩り豊かな世界にすること。 わたし自身も寛斎さんに深い愛情を頂いた寛斎チルドレンの一人だと自負し、 寛斎さんから頂いた大きなものを沢山の方々に伝えていく役割になりたいとおもいます。 いつかまた元氣な寛斎さんにお会いできる日まで。

 巨星が落ちた。国中がコロナに苦しみ、「元気」をもっとも必要としているそのときに。病室で書いた3月4日付のメッセージには「『元気な山本寛斎』として必ず戻ってきます」と書いてあった。何か感じていたのか。 訃報を聞いて、すぐ2019年1月22日に国際ファッション専門職大学の開学記念シンポジウムに登壇いただいたときのことが頭をめぐった。 「日本のファッション界にはビジネスとクリエーションの両方の才能を兼ね備えたひとがいない。そうした人材を育てなければ日本は世界からおいていかれる」と言って、開学直前のわれわれを激励してくれた。 2月の入院、4月初めの「日本元気プロジェクト2020」の延期、そして6月初めの、映像配信への切り替え。どれほど辛い決断だったか。

映像配信の「企画イメージブック」に次のような一文があった。「いのちある限り、挑戦者でありたい!苦しい今を、苦しいときを楽しんでやる!」 寛斎さん。あなたはその通りに生きました。苦しさを楽しさに変えて。だから死の床では、きっと笑顔だったのでしょう。いつもの、あの優しい目を閉じて。 だから泣きません、私は。

 42年に及ぶ寛斎さんとの付き合いでした。元気で、優しくて、視野がとてつもなく広くて、独創の本質をついた偉大なクリエイターでした。神は、いい人から先に召されるのでしょうか。天国でもお元気で。

 子供からお年寄りまで楽しめる、豪快で笑顔に溢れたファッションは寛斎さんしか作れない価値だと思っていますし、“元気”は“美意識”だと寛斎さんに教えていただきました。孫ほど離れた僕に対して、常に敬語で、フランクに接して頂き、いつも感激していました。寛斎さんと共にクリエイトさせていただいた経験は自分の宝物です。

 いつもパワフルで、寛斎にお話しするときはアッと驚かせようとパワーがみなぎってきました。これからもとばしていきますので、とびきりのスマイル下さい。

 1979年から日本から来ている唯一のフォトグラファーとして「カンサイヤマモト」のパリコレを撮影しました。黒子に徹して表に出てこないデザイナーが多い中で、寛斎さんはショーの冒頭に歌舞伎の黒子に扮してモデルより先に登場しては会場中に響き渡るような声で「いくぞ、いくぞ〜」など叫ぶわけ。それは、海外メディアも喜んで拍手を送りますよ。パリコレの中で日本人がまだ肩身が狭かった当時、その元気が嬉しかったです。それ以降、フォトグラファーがショーの始まりを催促する言葉は、日本語の場合は「いくぞ、いくぞ〜」になりました。本当に明るくて、サービス精神が旺盛な方でした。

 山本寛斎の死を前にして感じるのは、ファッション・デザイナーという存在の脆さである。山本寛斎のファッション・デザイナーとしての才能が突出しているのは述べるまでもないのだが、それが生涯にわたって十全に発揮されたかということになると疑わしい。ただし知名度ということになるとこれもまたファッション・デザイナーの中では突出した存在だったわけで、このあたりに山本寛斎という複雑な存在を読み解く鍵がある。実はその「人間 山本寛斎」のことを知りたいと思い、今年1月に弊紙「ファッション業界人物列伝」への登場を依頼した。すると、6月に六本木ヒルズでビッグイベントがあるから、それに合わせた連載にしてほしいとの返信が山本寛斎事務所からあり、さらにギャラの問い合わせもあった。ずいぶん「シツケ」がいいものだなぁと感心したのを覚えている。もう山本寛斎はイベントプロデューサーとしてタレント(太田プロダクションと業務提携)の道を歩んでいるのだった。思えば、1980年代半ばにやまもと寛斎社が経営破綻してからはイバラの道を歩んでいた。

 ファッション・デザイナーとしてのピークは、日本ファッションのパイオニアとして、71年にロンドン・コレクションに登場し、その後74年にパリコレクション、79年にニューヨークコレクションに参加して、世界主要都市に「ブティック寛斎」を出店したいたあたりだろう。自社経営破綻後は「鉄丸」という芸名で、イベントプロデューサーの仕事がメインになってしまった。「鉄丸」という名前を使ったのは、ファッション・デザイナーとしての自負がまだあったからなのだろうが、いつの間にか「鉄丸」という芸名も消えて、イベントプロデューサー山本寛斎が前面に出て、「元気」や「気合い」を前面に出すようになっていった。新型コロナウイルスが跳梁跋扈する今の時代に、沈滞する日本を元気にする男として活躍の機会はきっと増えていただろうに、実に残念な死だったと思わずにはいられない。

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